「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月5日水曜日
「変身してないヤツ」
19世紀末の東欧だったと思う。プラハとかその辺。父親と母親。娘が一人。娘は妹で、兄がいた。二人兄妹で兄がこの一家の稼ぎ手だ。そういう家族構成。だが、俺が訪ねたとき兄は不在だった。父親と母親は、息子は今商売で地方を回っているのだと云った。実際、息子は地方周りのセールスマンだ。俺は事前情報として知っていた。だが、妹は両親とは違う意見だった。兄は今も自分の部屋で寝ていますよ。妹は重い目で俺に云った。壁際に寄り添って立っていた父親と母親は恐ろしげに自分たちの娘を一瞥し、そのあとで訴えるような目で俺を見た。俺は煙草を巻き終え火をつけた。そして黙って一服した。
妹に案内されて入った兄の部屋には、ただベッドがあるだけだった。他には何もない。白いシーツのベッドがあるだけ。妹がベッドの上を指さし、ほらそこに、と云った。白いシーツの上に一匹の小さな黒い虫がひっくり返って六本足をモゾモゾさせていた。普通のゴミ虫。甲虫の一種。学名はアニソダクティルス・シグナトス。大きさも普通だ。別に人間サイズでもない。これが君の兄さんか、と俺は訊いた。妹は、そう。最初は気付かなかったんですけど、兄です、と俺の目をまっすぐ見て答えた。なぜ兄さんだと分かる。兄妹だからです。兄妹は親子よりも繋がりが強いものです。妹はそう云って部屋の外から様子を見ている父親と母親を睨んだ。それから、兄がこうなったのはあの人たちのせいです、と付け足した。あの人たちというのは、と訊くと、父と母です、とハッキリ答え、それを聞いた両親は身を縮めて抱き合った。
俺は両親の依頼でこの家に来ていた。娘が悪魔に取り憑かれたとかどうとか、そういうハナシだ。この俺に悪魔払いを頼むとはとんだお笑いぐさだが、カネになるので黙って引き受けた。
妹は悪魔に取り憑かれてなどいない。そもそも悪魔ってなんだ。妹の云う通り、彼女の兄は今もこの部屋にいる。ゴミ虫が兄であるという指摘もまんざら間違いではない。全く正しいわけでもないが……
俺は成仏湯のアンプルを取り出し、仰向けになって藻掻くゴミ虫の上に数滴垂らした。虫は驚いて動きを止めた。成仏湯は生き物に害はない。ビックリしただけだ。その効果は別のものに現れた。俺たちがこの部屋に入る前からここにいて、ずっとベッドの上のゴミ虫を覗き込んでいた若い男。この家の息子、彼女の兄だ。成仏湯がゴミ虫に触れたと同時にソイツは消えて成仏した。