「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月10日月曜日
「木で出来たヤツ」
俺は操り人形の「死体」を担いだままドアをノックした。待っていたジイサンは、すぐにドアを開けた。そして、変わり果てた「息子」の姿に打ちのめされた。学校に行くと云って家を出た「息子」が行方不明になって三日後に「死体」となって帰って来たのだから無理もない。
初めて会った時、シャツ一枚で震えてジイサンはまるでノライヌだった。今日は、俺がやった上着を着て、一応人間らしく見えた。ジイサンは、ボロい暖炉の火に掛けられた鍋の中の正体の分からない肉が入ったスープをこの家にひとつしかない汚い椀に入れ、どうぞご苦労様でした、と俺に差し出した。
俺は……俺は熱いスープで冷えた体を温めた。
この子は元は木切れです。木切れの時から、喋ったり、ちょっとしたイタズラをしたりはしていましたが、ワシが操り人形にしてやると、走って逃げ回ったり、腹を空かして食べ物をねだって泣くということを始めて、なんだか人間と区別がつかなくなりました。その一方で、自分の足が燃えてなくなっても痛くも痒くもないということもあって、それはやっぱりこの子が、人間ではなく、人間のマネゴトをしているだけの、ただの木切れだったからでしょうか。
自分では動かないフツウの操り人形になってしまった「息子」の顔を撫でながらジイサンが俺に訊く。俺は、そうだ、と答える。
そうすると、首を括られて死んだりしますか。
死なんよ。木切れの時には決して縊死することはなかっただろうピノッキオは、自分が人間のように首を吊られているという認識を持ったからこそ、人間のように縊死したのさ。
ということは、ワシがこの子を人の形にして、括られる首を作ってしまったから、この子は首を吊られて死んでしまったということですかな。
まあ、だいたいそうだ。人の形になったからこそ、腹が減ったり、学校に行きたがったり、ジイサンのことを親だと云ったりしたが、それは全部、木切れの人間ごっこで、命ある人間の真実から生まれ出たものではない。今回縊死したのも、木切れの単なる人間ごっこさ。
じゃあ、生き返るんですか。
生き返るもなにも死んでいない。なぜ死なないのかと云えば、そもそも生きていなかった。生きてはいなかったのだから死にもしない。死んでないのだから生き返りもしない。
わかりません。
一定数以上の人間たちの意識と繋がれば、その木切れはまた動き出すだろう。生き返るのではなく動き出す。それが、その操り人形のすべてだ。