2019年6月5日水曜日

「百まで生きるヤツ」


その若い日本兵はふんどし一丁で真っ暗な夜のジャングルの中を逃げ回っていた。銃はない。靴も履いてない。手ぶら足ぶらだ。何から逃げているのか、もう自分でも分からなくなっているだろう。敵兵か、敵兵に協力的な原住民たちか、それとも、もっと別の、ナニカ漠然とした恐怖からか。死とか、痛みとか、そういう、本当は存在しないものが生み出すナニカ漠然とした恐怖。きっとそれが正解だろう。

その日の朝早くにソイツが所属していた小さな部隊は全滅した。奇襲。戦闘などない。アリの群れが踏み潰されるように、ただ一方的にやられた。ソイツ一人がやられなかった。と云っても、別に凄腕だったからじゃない。ただの巡り合わせ。タマタマ、敵が襲ってきたのとは反対側の、兵舎から離れた海に近い場所で一人見張り番をしていて助かった。下手に立ち向かおうとせず、一目散に海に飛び込んだのもヨカッタ。賢明だ。

しかしそれだけなら当時のあの辺では珍しくもない話。俺がわざわざこの話をするのは、ふんどし一丁で夜のジャングルを逃げ回るソイツが、その時点で既に死んでいたからだ。しかも、その若い日本兵は、霊とか魂とか呼ばれる存在としてではなく、死んだ肉体のまま夜のジャングルを逃げ回っていた。こんなことは滅多にない。ソイツがどの時点で死んだのかは知らない。敵に殺されたのではないのは確かだ。海を逃げているうちに溺れ死んだのかもしれない。はっきりしているのは、ジャングルに逃げ込んだ時点でソイツはもう死んでいたということ。

自分が死んだことに気付かないヤツは多いが、死んだ体で半日逃げ続けるトボケたヤツはそうはいない。面白くなって俺はソイツの後を追った。いつ気付き、気付くとどうなるのか、興味があったからだ。

真夜中。それまで疲れを知らずに(そりゃ死体だから疲れは知らないさ)走り続けていたソイツが突然立ち止まった。両手を突き出し進行方向の空間を探り始める。パントマイムの「見えない壁」状態だ。と、その時、空間に突き出したソイツの両手から体の中心に白い光がすーっと入り込んだ。当人は全く気付いてないが俺には見えた。そして、白い光が入り込んだ瞬間、ソイツの死んだ体が生き返ったのも俺には分かった。ソイツは何やらブツクサ云って自分の掌を眺め、もう一度空間に手を突き出す。今度は何もない。

ソイツは生き返った体で再び走り出した。

ソイツは今も生きてる。きっと百まで生きるだろう。