「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月12日水曜日
アナトー・シキソの「雪女」
たとえ雪深い北国じゃなくても、冬の荒れた夜のホッタテ小屋で火も焚かずに寝入ってしまったら、そりゃあ命の保証はないよ。年寄りが死んで若い方がどうにか生き残ったのは、雪女がどうとか、そういうんじゃなくて、単に体力差、生命力の違いだ。
あの遭難死亡事故には不気味も不可思議も何もない。実際、当時誰ひとりとしてそんなことは思いもしなかった。ああいう情況ではよくあることだから。老人が死んで若者が生き残った。自然の摂理だよ。だから、今になってそんなことを云い出すのはオカシイのさ。女房の正体がその時会った雪女だったなんてね。
アタシに会ったことをバラしたらアンタも殺すって雪女に脅されたってのも、当人ひとりが云ってるだけ。しかも、そんなこと云った雪女は、あとで偶然を装って男に近づいて、一旦は殺そうとした男の嫁になって子供まで生むってのはナンダカ支離滅裂じゃないか。バケモノだからやることが支離滅裂なんだって云うんなら、そもそも黙ってたら殺さないっていう約束自体、まるでアテになりはしないし、結局、約束を破って口外しても殺されることはなかっただろう?
どうにも一貫性がないよ。
ボクはね、この件では怪奇性よりも事件性を強く感じてるんだ。つまり、数年前の遭難事故にではなく、今回の突然の女房失踪に対して。
要点はふたつ。何年経っても老け込まない女房と異常な子だくさん。
確かに、百姓仕事の過酷さのせいでみんながみんなすぐに容姿がクタビレるとは限らないよ。個人差はある。ただ、そこに異常な子だくさんという要素が加わるとそうも云ってられない。あの家で何人の子供が生まれたか知ってるかい?
そう、5年で10人だ!
毎年二人ずつ生んだのか、五つ子を二回に分けて生んだのかは知らないけれど、まず人間業じゃないよね。10人の子持ちはそりゃあ探せば他にもいるだろうけど、5年で10人は、まず、いない。
過酷な野良仕事に加え、短期間での大量出産は間違いなく肉体を蝕む。にもかかわらず女房はずっと若々しい。5年で10人の子を生み、しかも若さを失わない女房は、確かにその点でバケモノじみている。だから雪女なのか?
いやあ、違うね。
真相は、あの家には複数の女房がいたということさ。少なくとも3人はいただろう。ボクは断言するよ。今回、女房は雪になって消えたんじゃない。死体になってどこかに埋められている。しかも、埋められている女房の死体は一つだけではない。