「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月19日水曜日
アナトー・シキソの「銀河鉄道の夜」
子供の時、祭りの日に友達が川で溺れ死んだ。
当時のオレんちはけっこうな貧乏で、オレは、朝の新聞配達と放課後の印刷所の手伝いで家計を助けていた。オヤジは何かヤラカシて刑務所にいたし、オフクロはだいたい寝込んでまともに働けない。姉貴は、最初のうちは健気に貧乏に耐えてたけど、結局男を作ってどっかに消えた。振り返ってみるとけっこうキツい。けど、リアルタイムではソレホドデモなかったから不思議だ。住む家があって学校にも普通に行けてたからだろう。
あとで振り返って気付くのが子供時代の貧乏なのだ。
オレは祭りに全然関心がなかった。祭りだナンダと云ったところで、子供にとっては夜店でナニカ買うことだけが楽しみなのだ。つまり、少なくとも周りの同学年と同じ程度の小遣いを持っていなければ、祭りの日に賑やかな場所に行っても疎外感を味わうだけ。
というわけで、オレは、配達され忘れた牛乳を取りに、賑やかな場所とは反対にある牛乳屋に向かった。必要もないのにツキアイで取らされてる牛乳。こんな理由でカネを使ってるから益々貧乏になるんだと今なら分かる。
牛乳屋に着くとツラそうな顔をしたバアさんが出てきて、今は家のモンがいなくてアタシにはよく分からんからまたあとで来てくれ、と云った。オレは、じゃあそうします、と答えて店を出た。帰り道、同級生たちが騒ぎながらこちらに来るのに気付いたオレは、灯のない小さな公園に入って、ゾウの滑り台の陰に隠れた。
人間の子供と呼ばれる生き物の絶対的なタチの悪さを子供の時に思い知ると、その後の人生に於いて、人間という生き物自体を深い部分で信用しなくなり、その不信は一生回復しない。
同級生たちをやり過ごしたオレは公園のベンチの上に寝転んだ。朝も夜もバイト漬け。オレはベンチの上で夜空を見てるうちに眠り込んでしまった。そしてその間に凄くイヤな夢を見た。具体的な中身は目覚める瞬間に忘れた。イヤな夢を見たということだけを覚えていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
翌朝学校に行って、そのサイレンが祭りに来ていて川で溺れた子供を病院に運んだ救急車のモノだったことを知った。病院に担ぎ込まれた時にはもう死んでいたその子供というのが、当時のオレにとってのたった一人の友達だった。
誰かがわざとそうしてるとしか思えないことが起きると、人はつい途中で汽車を降りてしまう。そこが終点だと思ってしまう。そんなものはないのに。