「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月12日水曜日
アナトー・シキソの「耳なし芳一」
幼なじみの芳一(よしかず)は全盲だった。全盲者は聴覚が優れているものだ。芳一も耳がよかった。つまり音楽の才能があった。芳一は最初バンドをやろうとしたが、バンドというのはアレで案外見えることが大事だ。芳一は一人で出来るギターの弾き語りに路線変更した。
芳一は地元の有名人になった。街の小さなライブハウスは必ず満席に出来たし、ネットにアップした演奏動画の評判もかなりよかった。
その芳一がある日コツゼンと姿を消した。時間になっても起きて来ない芳一を起こしに行った母親が、その朝、芳一の部屋で見たのは、血まみれの布団と、その上に落ちた人間の両耳だった。
布団に残された血は、それだけでは致死量ではなかった。落ちていた耳は、特徴的なピアスのオカゲで、すぐに両耳ともが芳一の耳だと確認された。念のための血液型検査も一致したし、芳一愛用のニットキャップから採取した毛髪のDNAと、残された耳のDNAも一致した。もはや疑いようがなかった。
耳の話はもういい。問題は、耳以外がどこに行ってしまったかだ。
誰もがそう思った。芳一は生きているのか死んでいるのか。
人間は耳が切り落とされたくらいでは死なないだろうが、そのまま治療されてなければやはり死んでしまうこともあるだろう。失血死、感染症、あるいは激しい痛みによる衰弱死。芳一の両耳を切り落とした何者かが、連れ去った先で直に芳一の命を奪うことも考えられる。
芳一が自分で自分の両耳を切り落とし姿をくらました可能性もないではないが、その想像は、芳一が暴力の被害者であると考えるよりもさらに悍ましかった。芳一は、その時、どんな顔で、そして何故、自分の両耳を切り落としたのか?
芳一が発見されないまま、一ヶ月、半年、一年が過ぎた。
そして、あの動画がネット上に現れた。
薄闇の中を動き回るカメラの揺れる映像。撮影者の激しい息づかい。衣服の擦れる音や足音。カメラを持つ手がカメラと擦れて出す独特の擦過音。その向うから確かに芳一の歌声が聞こえる。「ファン」ならすぐに分かる彼の声。撮影者はどうやら歌う芳一に近づいているらしい。映像が進むにつれ、芳一の歌声が大きくハッキリしてくる。
だが、残り数秒で映像は急展開を見せる。撮影者が持っていたカメラを落としてしまうのだ。落としたカメラを拾い上げる撮影者。その最後の瞬間に意図せず映り込んでしまう撮影者のその顔は、紛れもなく、両耳のない芳一その人だった。