「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月5日水曜日
「年をとりそこねたヤツ」
その漁師が浜で助けたのは亀じゃない。女だ。男どもに襲われているよそ者の若い女を助けた。そしてそれっきり。漁師は助けた女ともども姿を消した。
生きているのか死んでいるのか。
ある村人は、二人は駆け落ちしたのだと主張し、別の村人は、年老いた母親を残してアイツがそんなことをするはずがないと反論した。長老は、人間はどこでどうなるか、自分自身を含め誰にも分からないものだと村人達に説いた。
俺は村をあとにした。平家が源氏に滅ぼされるよりもずっと前のことだ。
そしてあの夏。当時はまだそうは呼ばれてなかった原爆ドームの焼け焦げた姿を見物した帰り、俺はある港町でその失踪漁師と偶然に再会した。埠頭に一人でいた失踪漁師は、漁師らしからぬ上等な着物を着ていた。最初気付かず通り過ぎた俺にムコウから声を掛けてきたのだ。それが同じ日本語とは思えないほど言葉が違った。大昔の日本語だ。それで本物の当人だと分かった。ムコウは一目見て気付いたと云う。三年も会ってなかったがすぐに分かったとも云った。俺は、三年じゃない、少なくとも七百年は過ぎたと答えた。相手はソンナバカナという顔で不安げに微笑んだ。
漁師は村を離れていた〈三年間〉について俺に話した。
礼がしたいという女の云われるままに、漁師は、女が暮らしているという島に渡った。そしてその島でこの世の極楽を味わった。衣食住、そして女、何不自由ない贅沢三昧の暮らし。三年があっという間に過ぎた。だが、どんな贅沢な暮らしも最後には虚しさに変わる。この虚しさを癒してくれるのは身内の情しかない。漁師は三年ぶりに一度村に帰ってみることにした。久しぶりの村はすっかり様子が変わっていて、身内どころか知った顔一つない。おかしな格好をして、おかしな言葉を使う人間ばかり。それですっかり途方に暮れて海を見ていたのだ。なぜなら、海だけは昔のままだったからだ。
七百年前と同じ海。
突然漁師は呻いて膝をついた。そしてそのまま横向きに転がって体を丸めた。ダイジョウブだと云った漁師の顔は、だが、見る見る萎びていった。
過冷却水。摂氏零度以下でも凍らない水。不純物を取り除き、やさしくそっと冷やせば、〈そのとき〉が来ても水は凍らない。だが、その状態はとても不安定だ。わずかな刺激の一瞬で過冷却水はあっさり凍りつく。
漁師は、俺の目の前で一気に乾涸び、粉々に砕けた。
強い海風が吹いた。
埠頭には俺の他はもう誰もいなかった。