「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月10日月曜日
「殺すためだけに殺すヤツ」
もし人間が狼に襲われて食われても、それだけでその人間が跡形もなくこの世界から消え去ることはない。魂の話じゃない。肉体の話だ。多様なスカヴェンジャー達が肉食獣の〈食い残し〉を片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消え去る。
その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれたバアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の下顎のない頭部だった。狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。
確かに人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回バアさんと女の子をこんな姿にしたのは人間の快楽殺人者ではない。狼だ。
狼の目的は殺しではなく食うことにある。食う行為は遺体をひどく損傷させる。だから、狼に食われた遺体は快楽殺人者の〈作品〉に似るが、両者は根本のテツガクが異なるので見分けがつく。その違いとは命に対する態度だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に快楽殺人者は、そもそもが命に取り憑かれた存在としての人間が度を超してトチ狂ったものだから、その殺戮には当然のように命に対する病的な執着が出る。快楽殺人者は、命を奪い、損ない、蔑ろにするということ自体に意味を見い出しているのだ。だが、命には意味も価値もない。快楽殺人者のそれは、人間が普通によくやる、自分の無意味な人生を意味があるかのように振り返って感慨に浸るのと根は同じだ。そういう人間の本質的な愚かさが快楽殺人者を生む。
繰り返そう。山小屋の殺戮には命に対する執着の跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でなければ、俺の出番はおそらくない。実際、しばらく調べて回ったが、バアさんの〈姿〉も、赤い頭巾の子供の〈姿〉も見つけられなかった。老いた個体や幼い個体が肉食獣の餌食になるのは、健全な命の営みとさえ云える。こういう場合の死は、たいてい後腐れを残さない。
俺は手帳のリストに線を引いて、山小屋をあとにした。
だが、村人達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかった。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の大山猫、そして一組の狼のツガイが〈容疑者〉として撃ち殺された。命の収支が合わなくなることなどお構いなしだ。俺は、闇に潜んで煙草を吹かしながら、その一部始終を見た。この地球上で唯一、ただ殺すためだけに殺す生き物の所業を。