2019年6月26日水曜日

アナトー・シキソの「アッシャー家の崩壊」


隠者というものがこれほど面倒くさい人間だとは思わなかった。知識があり、智恵もあり、だが社会との関わりを絶って生きている人間は、俺が普段接している人種とはまるで違う。世間的な常識や気遣いはこういう類いの人間には全く存在しないらしい。それが証拠に、この老人は、何日もかけて遠くからやって来た俺を、扉も開けずに追い返そうとしている。しかも外は暗く雨まで降っているのだ。にもかかわらず、そのまま回れ右をして帰れと云い放つその感覚が俺には分からない。

全身を覆う甲冑の内側を大量の雨水が伝うのを感じながら、俺は何とかこの年寄りに云うことを聞かせようと頑張った。だが、世界の傍観者を気取る、本当は無力な田舎者の老いぼれは、頑として俺の要求を受け入れない。社会から必要とされない者は、逆からも必要とはしないのだろう。社会的に価値があるとされる金も地位も名声も義理も責任も、扉の向うの嗄れ声をなびかせることは出来なかった。

分厚い木の扉のわずかに開いた小さな覗き窓から目玉だけを見せて、因業ジジイが俺に云った。

私がオマエに対して扉を開けないのは、そうすることに意味があるからだ。私のこの話が終わったあと、オマエはしびれを切らせて〈いつものやり方〉を実行する。すなわち、この分厚い扉を、オマエのその恐ろしい鎚矛で叩き壊し、ムリヤリ私の庵に押し入る。そして、無抵抗な私の脳天をその鎚矛で打ち砕いて私を殺すのだ。オマエは当初の望みどおり、あの真鍮の楯を手に入れるだろう。全ては起こるとおりに起こる。だが、ここで起きていることが本当に起きていることではない。

ワケの分からないことを云う。それならお望みどおりに、と俺は決心する。本当は手荒なマネなどしたくはなかったのだが、老人の云う俺の〈いつものやり方〉ならコトは簡単に済む。これ以上雨に降られながら扉に張り付いて猫なで声を出す必要などない。俺は鎚矛を背中から抜き、両手で握って構えた。

始めからこうすれば良かった。

頭を割られて動かなくなった老人を眺めながら、戸棚にあったワインとパンで腹ごしらえをしたあと、俺は老人が隠し持っていた真鍮の楯を背負って、庵の床の血だまりを跨いで外に出た。いつの間にか雨は上がっていて、空には月が見えた。血のような真っ赤な色をした沈みかけの満月。

その真っ赤な満月から逃げるように男が一人走って来る。何度も月を振り返るその男のことを俺はもちろん知らない。