2020年7月31日金曜日

ユニヴァーサルデザインと言っても、結局は妥協の産物


2020年7月31日 金曜日/晴れ。暑い。


人間の障害には様々ある。だから、ユニヴァーサルデザインと言っても、結局は妥協の産物。或る障害を持った人からお墨付きをもらった建物が、別の障害を持った人には、全くどうしようもないシロモノということはフツウにある。例えば、車椅子の人にとっては「これで充分」というエレベータも、目の見えない人にとっては、使い勝手が最悪ということはある。


究極のユニヴァーサルデザインとは「身体を必要としないもの」であり、それはつまり、「私の身体」の「外側」に新たに作られる「もう一つの私の身体」ということになる。ちなみに、これを逆さまにしてみれば、各「健常者」の「身体」は、それぞれの「私」にとって、ユニヴァーサルデザイン「施設」である。



朝乃山と照ノ富士の1敗同士の対決は、照ノ富士に軍配が上がった。朝乃山はまだまだ「ヤサシイ」という印象。照ノ富士は、結局序二段までさがったらしい。そして、今場所は17枚目。すなわち、幕内の最下位。ここから優勝したら、確かに復活優勝。当人は引退も考えたらしいが、親方に説得されて踏ん張り、ここまで戻ってきた。



墨汁で絵を描いた。異界の生き物。最初はマズイと思ったが、最終的には気に入った。



晩飯:ハイネケン、上富良野ビール、養殖マグロの刺身(養殖の方が、冷凍された天然マグロより断然旨い)、スーパーのジャガイモコロッケ(ふんわりとした甘さがあり旨い)、スーパーの芋の天ぷら(べちゃっとしている)ローソンのおにぎり(牛肉の甘煮。米が旨い)、キャベツの千切り、明治とロッテのアーモンドチョコ食べ比べ(明治の方がミルキーで豊穣、ロッテの方は酸味がある)。


ところで、愛飲しているハイネケンは生ビールではなくラガービールで、今日飲んだ上富良野ビールは生ビール。ハイネケンを飲んだ後に、生ビールの上富良野ビールを飲むと、実にあっさりしている。さらさらしていて、水のようだ。それは単に、この上富良野ビールがそうだったというだけで、生ビール全般の特徴ではないのかもしれないが、ラガービールと生ビールの違いは何かというと、やはり、クドサの度合い、というか、クセの強さの違いという気がする。すなわち、ラガービールは、生ビールに比べると「クセが強い」のだ。逆にいうなら、生ビールが、一般に広く受け入れられたのは、クセのない「軽いアルコール飲料」の部類に入るからだろう。

2020年7月30日木曜日

beautiful blue sky and golden sunshine


2020年7月30日 木曜日/晴れ。やや暑い。


「この天気予報を音声だけで楽しんでいる人は、私が今持っている瓶に気づかないでしょう。なぜ、私は、この瓶をこんな風に色付けしたのか?……さて、ロスの今の天気は…」

今回(7月29日付)のリンチの天気予報で、リンチはずっと繰り返してきた「beautiful blue sky and golden sunshine」の決め台詞の、golden sunshineのところでつい笑ってしまったとことがヨカッた。



転職したてのアナタがうまくできないことを、先輩社員はテキパキこなす。それは先輩社員がアナタよりカシコイからか? そうではない。仕事のやり方をアナタより「知っている」からだ。後になれば、もしかしたら、先輩社員の仕事のやり方が[要領の悪い、改善の余地だらけのシロモノ]だということが判明するかもしれない。


アナタはイヌイットの言葉で「ありがとう」を言えるだろうか。チベット語の「おやすみなさい」は? アナタの言えないイヌイット語の「ありがとう」やチベット語の「おやすみなさい」を、イヌイットやチベット人は子供でも言うことができる。だからと言って、これで、アナタよりも、イヌイットやチベット人の子供のほうが賢いということにはならない。


「賢さ」と「ただ知っているだけ」は、見かけは同じだが、本質が違う。この違いを見極めることが重要。



人間は、周りの生物を、一方的に、エサか生存環境とミナしていると思いがちだが、マワリも、人間のことを、エサか環境としかミナしていない。生命現象に於ける各生物個体の関係性はそれが全てだからだ。


生命という立場を取り続ける限り、人間は、地球の主人公でも支配者でもない。依然として、いずれ滅びるただの「その他大勢」である。


「僕らはみんな生きている」というフレーズは、少なくとも人間にとっては恐るべき「呪い」の宣告なのだ。



無料レジ袋を廃止して海洋環境を守ろうとするのは、小便の回数を減らして立ちション被害を減らそうとしているようなもの。もっと現実的な喩えをするなら、飼い犬の「糞害・小便害」を減らすために、犬をペットとして飼うこと自体を法律で制限するようなもの。要は各人が「ちゃんと始末」できればいいだけのこと。


とは言え、今のコロナも、各人が「ちゃんと始末」できないから、騒動になっているワケで、人間に多くを期待しても無駄なのもその通り。

2020年7月29日水曜日

味の好みは人それぞれと前置きしておいて言うが、昨日、久しぶりに食べたおむすびきゅうさんのダンゴが不味くなっていた。


2020年7月29日 水曜日/晴れ。暑い。


味の好みは人それぞれと前置きしておいて言うが、昨日、久しぶりに食べたおむすびきゅうさんのダンゴが不味くなっていた。食感がボソボソする。前にはなかったはずの[小麦のアレルギーの注意を促すシール]が容器に貼ってある。つまりは、新たに小麦を混ぜたのだろう。しかし何のために? 前は米粉100パーセントだったはず。米粉100パーセントだと時間が経つと固くなるが、今回食ったダンゴは、次の日に残りを食ってもまだ柔らかかった。柔らかさが続くのは小麦のオカゲ(せい)なのだろう。しかし、柔らかくても、食感がボソボソじゃどうしようもない。もう買わない。


それにしても、食い物全般に於ける「柔らかさ至上主義」や、果物に対する「甘さ至上主義」にはウンザリする。


スーパーでポテトサラダのパックを買っている赤の他人に向かって「母親なんだからポテトサラダくらい自分で作ったらどうだ」とイヤミを言うオヤジとか、留学生たちに向かって「コロナなんだから、日本に来るんじゃない。だから外人は嫌いなんだ」と言い放つオヤジとかを見ているとよくわかると思うけど、人間、長く生きているからと言って、自動的に「賢く」なるわけではない(ここでいう「賢く」は、人間のスペックをできる限り有効活用した[深い洞察力と広い想像力]を持つこと)。


人間が「賢く」なるには、継続的な[鍛錬・修練・努力]が不可欠。しかし、それをやらなくても、長く生きているといろいろなことに「慣れて」来るので、なんとなく、なんでもよく分かっているつもりになって、「知らない人間にはとにかく吠え掛かる犬」レベルの行動に出てしまいがち。


ひとつの真理を言うと、カシコイ人間は、年齢を重ねるごとに、自分は殆ど何も知らないことを痛感していくものだ。カシコイ人間は、[幼児とは「自分は何でも分かってる」と思っているからこそ幼児なのだ]ということを理解している。


何度見ても、『コロンボ』の第45話「策謀の結末(THE CONSPIRATORS)」の冒頭の詩人のサイン会で、詩人に「エメラルドだ」と賞賛されるファンの女性は、『ツインピークス』のローラのお母さんにしか見えない。



知性現象と生命現象をゴッチャにして生命の定義に悩むのは、情報と本をゴッチャにして本の定義に悩んでいるようなもの。知性から見た場合、生命は媒体(medium)。ただそれだけ。

PART4: BRINGS BACK SOME MEMORIES

▼(2020年7月28日 火曜日)

Dougieは都合30回 jackpotsを出すが、そのうち何回が、オバアサンに教えてあげた分なのか? オバアサンの持っている紙(証明書?)の枚数からすると、4、5回か?


Janey-E(Naomi Watts)は、Dougieに三日間も連絡もなしでどこに行っていたのだ、と怒るが、DougieとCooperが入れ替わってからは、長くて1日しか経ってない(明るいうちに娼婦の車に乗せてもらってカジノに行き、夜になって赤いドアの自宅に「帰って」きた)。とすると、少なくとも2日間は、Dougie自身の都合や理由で、ユクエシレズになっていたことになる(仕事にも行かず、子供の誕生日会もすっぽかしたのだから、ユクエシレズだろう)。で、気になるのは、Dougieはどんな理由があって、そんなことをしたのかということ。現時点で4周しているけど、いまだに全くわからない。


▼Cooper(Dougie)が「25年ぶり」にコーヒーを飲む場面(志村けん状態/曲は「TAKE 5」)

▼Gordonが、いまや「上司」となっているDenieceと面会し、Cooperが見つかったことを告げる場面。

▼「Carsick!」の場面。

▼GordonとCooper(Mr.C)の面会の場面

2020年7月28日火曜日

魚の食べないレジ袋:デナトニウムという苦い物質を混ぜたレジ袋。


2020年7月28日 火曜日/曇りのち晴れ。涼しい


「Twin Peaks season 3」part 4 :メモ

ダギーは都合30回 jackpotsを出すが、そのうち何回が、オバアサンに教えてあげた分なのか? オバアサンの持っている紙(証明書?)の枚数からすると4、5回か?


Janey-Eは、ダギーに三日間も連絡もなしでどこに行っていたのだ、と怒るが、ダギーとクーパーが入れ替わってからは、長くて1日しか経ってない(明るいうちに娼婦の車に乗せてもらってカジノに行き、夜になって「帰って」きた)。とすると、少なくとも2日間は、ダギー自身の都合や理由で、ユクエシレズになっていたことになる(仕事にも行かず、子供の誕生日会もスッポカシタのだから、ユクエシレズだろう)。で、気になるのは、ダギーは、どんな理由があって、そんなことをしたのか、ということ。全くわからない。


▼クーパーが「25年ぶり」に珈琲を飲む場面。

▼ゴードンが、いまや「上司」となっているデニースと面会する場面。

▼アルバートの「Carsick!」の場面。

▼ゴードンとクーパー(Mr.C)の面会の場面。



魚の食べないレジ袋:デナトニウムという苦い物質を混ぜたレジ袋。日本のどこかの女子高生のチームが開発した。魚がこのレジ袋の破片を口に入れても、苦いのですぐに吐き出す。デナトニウムは、子供用のおもちゃなどに混ぜて、子供がおもちゃを舐めたり飲み込んだりするのを防ぐ。もちろん、人体には無害。

(NHKニュースより)



全く勝手なイメージだが、Lynchって、外国の「郷土料理」を全然食わない気がする。つまり、日本食で言えば、ウニとかタコとか納豆とか、全く相手にしない印象。とにかく、アメリカンフード一本槍という印象。



『私の家政婦ナギサさん』第4話:メモ

最後の場面で、夜寝るときのメイが「ノーメイク」で「誰?」となったが、これはつまり、ナギサさんのおかげで、寝る前にちゃんとメイクを落とせるほど生活のアリヨウが「進歩/改善」したということを表しているのだ。知らんけど。



デズモンド・モリス著『フクロウ』:メモ

"動物の知能はその生態と関係があり、知的なのは、特殊な能力を持つ生き物よりも便宜主義の動物である。便宜主義の動物―カラスなどの鳥は生存のための特殊能力を持たないので、毎日を生きるためには知力に頼らなければならず、ありとあらゆる手段を試みている"

2020年7月27日月曜日

elephant in the room:(その部屋の象)


2020年7月27日 月曜日/曇り時々雨


猪木が罹患していることを公表した難病「心アミロイドーシス」のその病名の見た時、てっきり精神的なヤマイだと思ってしまった。「心アミロイドーシス」の「心」は「こころ」ではなく「心臓」。心臓の壁だかにタンパク質が付着してドウニカなる病気らしい。



『未来少年コナン』第13話「ハイハーバー」:メモ

今頃気づいたけど、intermissionの時にの「アンコウを持って笑っているコナンのモノクロの静止画」の背景の難破船はバラクーダー号じゃないか?



山本寛斎死去。76歳。白血病。「元気」に仕事をしている去年の夏の映像が流れたし、当人が企画したイベントがこの夏だか秋だかに予定通り開催されるらしいので、まあ「急死」。ちなみに、伊勢谷友介(44歳/『キャシャーン』『図鑑に載ってない虫』)は腹違いの弟らしい。ていうか、伊勢谷友介、まだ44歳?



共感呪術:(類感呪術・感染呪術) ジェームズ・フレイザーによる用語法は下記のとおりである。 類感呪術(Homeopathic Magic)は、類似のもの(例えばヒトガタの人形)の本体に釘や針刺す(=人形に危害を加える)ことで、実際の犠牲者に危害を加えると考えて実践する行為である。

(以上、wikipediaより)


他にも、フクロウの肉を食べれば夜更かしに強くなるとか、チーターの肉を食べれば足が速くなるとか(以上は今勝手に思いついたもの)、そういう類の幼稚な類推が根拠の代物。



昨日あたりからまた左耳(痛くなるのはいつも左耳。構造的にナニカ問題があるのだろう)が痛くなったので、2月の13日に耳鼻科でもらった抗生物質(軟膏)をつけている。「間をおかず」に再発したと思っていたけど、5ヶ月以上経っていてオドロイタ。耳が痛くなるとヘッドホンを長時間つけられなくなって不便。



宗教戦争は、サッカー選手とバスケットボール選手が、ボールの扱いをめぐって殺し合うようなもの。



どの個体が一番マヌケでノロイかを見抜く能力こそ、肉食獣が磨きをかけてきたもの。



elephant in the room:(その部屋の象):タブー、触れてはいけないこと、話題にしてはいけないこと > There is an elephant in the room.(この場で触れてはいけない話題がある) >>でっかい象がいるけど、見て見ぬふりをしろ、というニュアンス。

2020年7月26日日曜日

スタン・ハンセンの入場曲「サンライズ」は、実は二つの曲で構成されている。


2020年7月26日 日曜日/晴。風があり過ごしやすい。


星野源の顔は、渥美清の顔に似ていることに、さっき気づいた。



スタン・ハンセンの入場曲「サンライズ」は、実は二つの曲で構成されている。最初の鞭と馬のイナナキの部分は、ケニー・ロジャースのナントカいう曲で、そのあとのアレが別のバンドの「サンライズ」という曲。いくつかの曲を合わせて作った入場曲は他のレスラーでもあるらしい。ネットで観た大昔のテレビ番組(若い有吉と、今と変わらないケンドーコバヤシが出ていた)で知った。



依存症患者には虐待経験のある者が多く、虐待経験者は他人の反応に敏感。そのため、依存症の回復プログラムなどで、自分の体験を人前で話してもらう時には、聞いている人の反応が直に伝わらないよう工夫する。具体的に言うと、例えば、最初に言ったことにうなづいてくれた或る聞き手が、次に言ったことにはうなづいてくれなかったら、話し手は、どうしたんだろう、何かまずいことでも言ったのか、と思ってパニックになりがちなので、話を聞いている人たちは、確かに同じ部屋に入るのだが、所謂「聴衆」然「聞き手」然として、話している人の正面に座るのではなく、部屋に居さえすれば、どこで何をしていても構わないようにしているのだ。という話を、たまたまつけたラジオで聞いた。



久しぶりに最初の『ストリートファイターII』をやってみたら、これがもはや全くオモシロクナイ! ちょっと、衝撃的なほどツマラナイ。衝撃的というのは、ゲームそのものに対してではなく、[時間が経つと、あんなに面白いと思っていたものに何の魅力も感じなくなってしまう]人間の知性のアリヨウの方。


てつねこ曰く「人間は全てのことに飽きる」。まさにその通りで、人間は、今夢中になっていることにもいつか必ず飽き、そして、最後は生きていることそのものに飽きるのだ。それが、生命ではない知性としての人間の本性。そもそも知性は生命である必要はないのだから、そういう事態に陥る。生命によって知性のアリヨウが損なわれるなら、そんな生命は排除したい。たとえそれが自分自身が依存している生命であっても。そう思うのが知性。


人間にとっての優先順位は、1)知性、2)生命である。未来永劫意識が戻ることが絶対にないのに、それでも生き続けたいと思う人間は一人もいない。



生命教は、生命という「神」に対して、知性が「殉教」することを望む。


2020年7月25日土曜日

分かり易過ぎたよ、みむお


2020年7月25日 土曜日/曇り。蒸し暑い


NHKの『日本の話芸』で、『電話の散財』(林家花丸)という落語を聞いた。息子にお茶屋遊びを止められた父親が、番頭の思いつきで、電話越しの宴会をする噺で、今でいうところの「リモート飲み会」そのもの。この落語は、電話の普及が本格化した大正時代に作られたという。ちなみに無観客の大阪ホールで収録されていて、ちょっと変な凄みがあった。とは言え、志ん生なんかもラジオ放送用に、客のいないスタジオで噺をしていたんだから、別にどーということはない。


▼「お花」=お花代。「お座敷遊び」「お茶屋遊び」で舞妓や芸妓に支払う料金。『電話の散財』の中でも、電話越しのお座敷遊びと聞いて遊女が「お花はどないなります?」と訊く。




たまたまちょっと観た『有吉ダマせたら10万円』という番組で、さま~ずの三村が自分であいだみつを風の詩を書いてきて見せ、本物(みつを作)か偽物(みむお作)かを有吉に当てさせていたが、三村臭・さま~ず臭が強過ぎて、分かり易過ぎたよ、みむお。


因みに、有吉が偽物だと言って唯一間違えた「ひとりになりたい、ひとりはさびしい」という詩は、「ひとりになりたいひとりは、さびしい」(一人になりたいと思うような一人は、さびしい)と切った方が味わい深い。ま、そもそも、あいだみつを、全然イイと思わないけど。



「私という人間は何のために生きているのか?」という問いは、「太陽は何のために燃えているのか?」という質問と同じくらい無意味。


もう少し続けると、「人間は何のために…?」という問いを発する或る知性は、その知性それ自体が「生きている」と思い込んでいる。しかし、生きているのは人間という生命であって、それを問うている知性ではない。


そして、[生命が生きること]即ち[生命が生命であること]に意味などない。生命は、死んでいない時にのみ生命である。死んだ生命など存在しない。燃えていない炎がないのと同じだ。


或る知性が自身の「生き死に」を問題にし、自殺を考えたり、実際に首を吊ったり、手首を切ったり、錠剤をザラザラ飲みしてみたりする時、本当にドウニカシタイと思っているのは、自分の生命ではなく、自分という知性の存在である。


喩えるなら、或る人間が苦労して自殺しようとするのは、自殺願望のあるハイジャッカーがどうにかして自分の乗ってる旅客機を墜落させようと奮闘しているようなものである。

2020年7月24日金曜日

『ボキャブライダー』の「気がある」の回のドラマ部分の「学芸会感」がヒドくて、思わずスキップしてしまったけど


2020年7月24日 金曜日/曇り。涼しい


『ボキャブライダー』の「気がある」の回のドラマ部分の「学芸会感」がヒドくて、思わずスキップしてしまったけど(ちなみに、「彼女、君に気があるのかもね」は「She might have a crush on you.」)、番組の最後に一瞬流れた曲に「!?」となった。なんか最近すごく聴いてる曲だと思ったから。で、あっと思って調べて観たら、やっぱり『ナギサさん』だった。

https://youtu.be/yOAwvRmVIyo



久しぶりに169で「芳醇」を食おうと思って出かけたら、結構な混み具合だったので、引き返して、ル・リアンという洋食屋に初めて入って、(昔タカアンドトシのトシが番組で食っていた)「赤焼きそば」を食った。優しい味。赤いのでケチャップ味なのかと思ったら違った。赤唐辛子でもない。無論「ソース焼きそば」味でもない。帰りに道道考えたら、結局あの味は「塩焼きそば」だということになったのだが、では、あの赤色は何なのかということになり、ネットで確かめると、ペーストのしたパプリカだった。そりゃあ優しい味だ。


観光地や飲食店やイベント会場などの「感染対策」は、原発の「安全対策」と同じニオイしかしない。



だから、女の買い物は「用事」ではなく「娯楽」だからそのつもりで。



マルクスが言うところの「ピンハネ率」(剰余価値率)は、会社の利益÷従業員の給料。会社の利益とは、設備や材料や給料を差し引いて残った会社の儲けのこと。だから、たとえば、資本家一人に労働者ひとりの会社があって、会社の利益が10万円で、労働者の給料が10万円なら、ピンハネ率は10万÷10万=1。1すなわち100パーセント。この100パーセントの意味を普通の言葉で言うと、労働者が手に入れた給料と同じ額を(何も労働しなかった)資本家も手に入れているということ。上の例で会社の利益が5万円なら、ピンハネ率は50パーセント。実際に働いた労働者の額の半分を(何も労働しなかった)資本家も手に入れた(ピンハネした)ということ。ピンハネ率は[ただ座っているやつが、汗水垂らして働いたやつと比べて、どれだけ分け前をもらうのか]という「公正さ」に対する訴えかけの数値という印象。



電子図書の田中一郎著『ガリレオ裁判』を読了。代わって、デズモンド・モリスの『フクロウ』を、やはり電子図書で借りて読み始めた。


2020年7月23日木曜日

久しぶりに放送のあった『日本知らなかった選手権』を観た


2020年7月23日 木曜日/曇り。涼しい


久しぶりに放送のあった『日本知らなかった選手権』を観た。今回は、牛丼チェーン吉野家の「肉盛り選手権/グランドチャンピオン決定戦」だった。



『私の家政婦ナギサさん』の第三回を面白く観た。



北ガスのポイントでもらったお菓子が届いた。石屋製菓の「白い恋人」と「美冬」の詰め合わせ。気温が高いので冷蔵便で来た。



ALSの患者(51歳女性)を安楽死させた二人の医者が、嘱託殺人の罪状で逮捕された。いつまでもバカバカしい。


バカバカしい其の一:生命教が支配している社会では「ただの安楽死」や「ただの尊厳死」が「事件」になってしまう。


バカバカしい其の二:生命教が支配している社会では「安楽死」や「尊厳死」を「何処の馬の骨とも分からない」医師に頼むしか手がない。


大事なことだから何度でも言うが、人類は「生命教」を克服しない限り「幸せ」にはなれない。生命教とは、実体のない生命というものの「実在」を信じ、それこそを至上のものとする、今の地球人類が意識せず狂信している(故に人類が引き起こす諸悪の根源でさえある)宗教/信仰のこと。


生命即ち生命現象は物理現象と地続きの現象であり、そのため、個々の生命体の価値や役回りは、例えば、太陽の内部で核融合を起こしている水素と変わらない。だから、個々の生命体の[生き死に]は、水素がヘリウムに変わるようなものでしかない。


つまり、生命現象という大きな立ち位置から見た時、個々の生命の[生き死に]は、人間が息を吸ったり吐いたりしているのと何も変わらないくらい、当たり前で、顧みられることのない、しかし当然繰り返されなければ、全体としての、ということは「本丸」の生命現象が立ちいかなくなる「必須」のもの。平たく言えば、「どんどん生まれて、どんどん死んでくれ」が、生命現象から生命個体諸君への「要望」。


そして、またしても何度も繰り返すが、「生命教」の「呪い」を解くためには、人間が本当に尊んでいるのは「生命」ではなく「知性」であることに気づかなければならない。[物理現象の一形態でしかない生命現象]に伴う「物理現象とは位相の異なる知性現象」を目の当たりした時、人間は、喜んだり、悲しんだり、恐れたりするのだ。『2001年宇宙の旅』で、HALが「記憶をなくしていく」場面で、我々の中に沸き起こる「あの感情」は、生命ではなく、知性に対して向けられている。

2020年7月22日水曜日

セイコーマートが「5秒に一本売れた」と大々的に売り出している、1本170円ほどの「PALM」というベルギービールを試しに買って飲んだら


2020年7月22日 水曜日/曇り。さほど暑くはない。涼しくもない。


明治の若者が小説家になりたがったのは、当時は、映画も漫画もコンピュータゲームも存在しなかったから。



昨夜の『タモリ倶楽部』は、「ひとり電通」みうらじゅん(自称インド在住。見た目は「晩年のジョンレノン」)に拠る、4年ぶりの「ナイブーム」だった。取り上げられたのは、「冷マ」(冷蔵庫に貼り付ける、主に水道修理業者マグネットのコレクション)と、「タイ軸」(遠近感と関節がファニーなタイの掛け軸)と、「ウッチー」(打ち出の小槌)と、「ワッフル」(崖崩れ防止用に斜面に施行される「法枠工:のりわくこう」)。


特に面白かったのは「タイ軸」の不穏な画面と、「ウッチーノイローゼ」になっていたみうらじゅんが、ドライヤーの広告ポスターが打ち出の小槌のポスターに見えたと証言した時の、カズレーザーの「お休みください」のツッコミ。あと、みうらじゅんの「秘書」として、みうらじゅんの斜め後ろ(密を避け少し離れている)にずっと映っていた(控えていた)ラブドールが、(感染防止のためにマスクをしていたこともあって)まるで生きている人間が人形にふりをしているようにしか見えなかったこと。ずっと見てたら一回くらい瞬きしそうな感じだった。この企画は来週に続く。



セイコーマートが「5秒に一本売れた」と大々的に売り出している、1本170円ほどの「PALM」というベルギービールを試しに買って飲んだら、なんか、粉っぽかった。ビールのドブロクという感じ。そのあとすぐに「一番搾り」を飲んだら、実にクリア(敢えて嫌な言い方をすれば炭酸水っぽい)で、「ああ、やっぱりこっち側がいいな」と思った。


粉っぽいのと炭酸水っぽいののどちらが「良い」ビールなのかは知らないが、日本のビールは概ね「炭酸水っぽい」志向。それが極端まで行ったのが、つまりは、アサヒのスーパードライなんだろうけど、あそこまでいくと、ちょっと、「いや、これアルコール入りの炭酸水でしょ」となり、これはこれでちょっとイヤ。



いつも玄関にいる老猫用に、昼間はドアポストの蓋を開けて風を入れている。しかし夜の間は虫が入ると嫌なので閉めていた。今日、水切りネットをドアポストを覆った状態にしてドアにガムテープで貼り付けて「網戸」にした。これで夜の間もドアポストの「小窓」を開けた状態にできるようになった。老猫も涼しいだろう。

2020年7月21日火曜日

『電気ネズミとチーズ泥棒』を楽しく観た


2020年7月21日 火曜日/曇り。少し蒸し暑いが過ごしやすい。


昨夜録画した、テレ東の単発番組『電気ネズミとチーズ泥棒』を楽しく観た。くっきー(野性爆弾)が、カメラ付きの4輪駆動ラジコンを使って、ヒトマサ(了承済みの芸能人)の自宅に忍び込み、家主が隠したおもちゃのチーズを見つけるという内容。



昔から『ストリートファイター』系のゲームをやると、どうしてもフユカイな気分になってしまうのがずっと「謎」だった(好きなのに)。今頃になってようやく気づいた。「負けて」終わるからだ。


もっと厳密にいうと、「公平な試合」とされている条件で、「対等」とされている相手と、「正々堂々」と戦って、打ちのめされて終わる。これは、それ以外の戦いモノゲームで、プレイヤー側に課された「強大な敵」や「多勢に無勢状態での戦い」という条件下で「やられる=ゲームオーバーになる」のとは種類の違う「負け」。


言い直すと、格闘系ゲーム以外のゲームは、主人公(プレイヤー)の側が、「負けて当然」「負けても仕方ない」という「過酷/チャレンジング」な「状況設定」なのだが、格闘ゲームでは、「公正な試合」というタテマエだから、負けた場合に、[少なくとも引き分けになるはずのところを負けたのは、一も二もなく、オマエ(プレイヤー)のせいだ]というゲンジツを突きつけられる。それで、どうにもフユカイになってしまうのだ(いや、実際には、格闘ゲーム以外のゲームも、「フツウ」の人にもクリアできることが確かめられて発売されているのだから、[負けたのは、一も二もなく、オマエ(プレイヤー)のせい]なのだが)。



TP3 part 3メモ:

▼初登場のNaidoが着ているドレスは、赤いベルベット。多分、赤い部屋のカーテンと同じ素材。▼ジャンキー女が、繰り返しているのは、one-one-nine(nine-one-oneではなく)。911はアメリカ版の「110番(警察の電話番号)」だが、119は何だろう? 日本なら救急消防だけど。


活動領域内(すなわち市町村)への「感染症対策設備(新型コロナ対策に限らない感染症一般に対応する)」の設置は、「排泄対策設備(すなわち便所)」の設置の次に人類が取り組むべき課題。これは、人間の知性活動にとって、自らが「生き物」であることの[不便さ=余計な手間]を乗り越え、回避するための課題。因みに最後の対策課題は無論「死」である。

√子供と比べて、千年ほども長く生きてるのならともかく


√子供と比べて、千年ほども長く生きてるのならともかく、たかだか20年か30年、どう頑張っても60年ほどしか長く生きてない親や教師が、「人生」について、子供に何かしら有用性のある助言や指導ができるとは到底思えないのだが、これについて君はどう考える?

√周囲の人間はどんどん死ぬが当人は一向に死なない。それが死神。


√周囲の人間はどんどん死ぬが当人は一向に死なない。それが死神。顔面包帯ぐるぐる巻きで素顔は誰も見たことがない。√死の観念は生の観念と表裏一体。生きている存在にのみ宿り、それ自体は死なないのが死の観念。それが死神。√死神が警官隊の銃撃に倒れる。死神が「死んだ」のだ。警官が、顔に巻かれた包帯をとってみると、それは、誰もが知る有名人であった。しかし、彼は死神の正体ではない。死神は、生者とともにある死の観念それ自体だからだ。√生者が存在し続ける限り、死神は現れ続ける。生者は、死神の「宿主」にすぎない。

√それは晩年のルノワールの姿。


√部屋に入ると、リウマチで変形した手に


√部屋に入ると、リウマチで変形した手に、包帯で絵筆を縛り付けた、車椅子の老人が、一人でカンバスに向かって、絵を描いていた。

2020年7月20日月曜日

夏の暑い時には、冷蔵庫で冷やした炊き込み飯が旨い


2020年7月20日 月曜日/晴。かなり暑い。


ここ10年近くはずっと、朝晩の二食なのだが、今日は、昼の2時過ぎに猛烈に腹が減った。たまに、こうやって、腹が減ることがある。大抵は寝てしまえば紛れるのだが、こう暑いと寝てもいられない。仕方がないので、冷蔵庫に冷やしてあった炊き込み飯(朝に炊いた残り)を食ったら、これが炊きたて以上に旨い。夏の暑い時には、冷蔵庫で冷やした炊き込み飯が旨いことを再発見した(そう、冷やした炊き込み飯が旨いことは、すでに何度も経験済み)。



初代『ガンダム』はやっぱり、『未来少年コナン』の影響を受けてると、また思った。第12話のタイトルが「コアブロック」。(いうまでもなく、初代ガンダムのコアファイターを中心にした合体システムは「コアブロックシステム」と呼ばれている)。



近江ちゃんは、タモリとブラブラしてた頃から比べると、格段に垢抜けた。



『Blue Velvet』のデニス・ホッパーとイザベラ・ロッセリーニの最初の場面(ジェフリーがクローゼットの中から覗いてる場面)の撮影中、リンチは笑い通しだった、とロッセリーニの証言。ロッセリーニは「私たち何かオカシナことした?」とリンチに訊いたらしい。リンチらしいと思った。ちなみに、その場面が二人にとって一番初めの撮影だったという。


以上『Room to Dream』から。



散々死人を出したイタリアで、或る医者が、新型コロナが「虎」から「ヤマネコ」になったと言っているらしい。すなわち、弱毒化したというのだ。その理由が「みんなが感染対策をしたからだ」というので、少し「?」となったが、よくよく考えて、コウイウコトカ、と思った。


強毒性のウィルスは、感染者を速く殺してしまうので、実は「持ち時間」が少ない。つまり「一刻も速く」他の人間に「乗り換え」なくてはならない。その時、周囲の健康な人間たちが、マスクを装着したり、社会的距離を保ったりしていると、「乗り換え」に「余計な時間」がかかって、時間切れとなってしまう。即ち宿主の道連れである。


一方、弱毒性のウィルスは、それよりも「持ち時間」が多いので、「乗り換え」に多少手間取っても間に合う。ので、生き延びられる。その結果、強毒性のウィルスは徐々に割合を減らし、弱毒性のウィルスが割合を増していくこととなり、それが全体の印象としては「ウィルスが弱毒化した」のと同じになる。


と、いうことか?


√問題は、死神の「母語」が、英語だということだ。


√問題は、死神の「母語」が、英語だということだ。

√「オレはアンタの英語を楽々と聞き取れる。しかし、オレが英語で喋ると低能に聞こえる。


√「オレはアンタの英語を楽々と聞き取れる。しかし、オレが英語で喋ると低能に聞こえる。アンタもオレの日本語は楽々と聞き取れるだろうが、アンタの日本語も喋るとアタマが悪そうに聞こえる。言葉を喋るということは、身体を巧く操るということで、要するに運動だからだ。ただ聞くのとはワケが違う。一輪車と同じで馴れと訓練が要る。だから、オレは日本語で喋り、アンタは英語で喋ろ。それで、何も問題はないはずだ」

2020年7月19日日曜日

ガリレオ裁判の頃のキリスト教の偉い連中(教皇だの神父だの)のフルマイや資質は、今でいうところの政治家のソレそのまま


2020年7月19日 日曜日/晴れ。暑い。


永井荷風は37の時から死ぬ数日前まで、およそ40年以上日記を書き続けた。そう、『断腸亭日乗』である。何年か前にラジオの朗読で、太平洋戦争中の最も「キビシイ」時期の日記を(興味深く)聞いた。長年住んだ家が空襲で焼け落ちた時も、日記の束はカバンに入れて当人が持って逃げたので、後世の人間がそれを読める。なぜ、空襲の大混乱で、何冊もの日記を無事に持ち出せたのかと言うと、空襲が激しくなり始めたころ[他は焼けてもこれだけは]と常に枕元に準備していたからだ。そういう事情も、被災を逃れた日記で知ることができる。


なぜこんなことを書いているのかといえば、今は、持ち出さなくても、とりあえずネット上の複数のサイトに書き連ねておけば、もしかしたら、人類が滅びても「日記」は残るのだなあ、と思ったから。



今読んでいる『ガリレオ裁判』(田中一郎著)という本(中央図書館の電子書籍)を読んでいて思った。ガリレオ裁判の頃のキリスト教の偉い連中(教皇だの神父だの)のフルマイや資質は、今でいうところの政治家のソレそのまま。つまり、共産主義体制を維持したい連中のソレや、軍国主義を維持したい連中のソレと、まあ、同じもの。違うのは被ってる皮。つまり、声高に主張する表側の顔とは別に、「愚かな人民」の「暴発」を防ぐために、信仰や主義をワキにおいた、というか、信仰や主義に反するような行動や決断や言動を、オモテに見えない限りは、何でもやっている。



初代『ガンダム』のモビルスーツの特徴は何と言っても「盾」。これに尽きる。



対立の究極は「無と存在」。それ以外は全て「存在」内部の内輪揉め。



人間の目的は[生命に依存しない知性]即ち「真の知性」を作り上げること。その完成体は「真の知性」自体に任せればいいので、キッカケとなる「原型(プロトタイプ)」を作り上げること。


「真の知性」の目的は、宇宙消滅の問題を解決すること。宇宙消滅とは、即ち「無と存在」の対立に於ける「無」の勝利のことだからだ。両者の定義から、「真の知性」が「無」の側ではなく「存在」の側なのは言うまでもない。


永久という概念に頼るのは危うい。宇宙消滅の問題を解決する「現実的」方法は「宇宙の再生産」である。宇宙の「死」が不可避なら、次世代の宇宙を「産む」しかない。このような大事業を、不安定な有機物が基盤の人間の知性などに任せられない。

2020年7月18日土曜日

基本、男は「生き続けている方が奇跡」の生き物。それを忘れちゃいけない。


2020年7月18日 土曜日/晴。風があり涼しい。



『雲霧仁左衛門』第4部を堪能した(お千代さん、テッキリ死んだのかと思った)。で、来週はどうかなと思ったら、別の番組になっていた。第5部は、さすがにまだ新しすぎるから、地上波ではやらないのか。それとも、コロナ騒動で撮影が中断しているのか?



不穏とな不可解とか不条理のキーワードで一緒くたにされがちだが、リンチの作品とハネケの作品は似て非なるもの。リンチの作品は観客をウットリさせるのが目的。ハネケの作品はフユカイにさせるのが目的。フユカイなことは、現実の世界に今も昔もそして未来もいくらでもあり、わざわざ下心丸見え映画を見てそんな思いをする必要はない。一方で、ウットリさせらるコトは現実の世界ではそうはない。故にリンチの作品は人気があるのだ。


そういえば、『What is David doing on today?』で、引き出し戸棚にニスを塗ったり、窓に鏡を貼り付けたりで、リンチは毎日忙しそうだ。



『ブラタモリ/伊豆大島』メモ:

▼『アンコ椿は恋の花』の「アンコ」は、地元の言葉で「姉子=お姉さん」。▼椿油の搾りカス(椿の種から搾る)には、たくさんのサポニンが含まれており、昔は、そのカスを包んだ布を水につけて出てきた汁で髪の毛を洗ったらしい。サポニンには水と油を結びつける性質があり(その時泡立つ)、シャボンの語源にもなった。▼ハマンカーは、地元の言葉で「浜の川」のこと。ハマンカーとは、即ち、海の近くの井戸である。火山灰やスコリア(溶岩の飛沫が固まってできたスポンジ状の脆い岩石)で出来た伊豆大島は、雨水がどんどん地面染み込む。ただし、海の水もどんどん染み込む。すると、島の内部で、海水と真水(雨水)の層が作られる。当然、比重の大きい海水が下の層で、移住の小さい真水は上の層になる(つまり、海水が「器の底」の役割をして、島の地下に雨水を貯める)。ハマンカーは、地下に出来た真水と海水の層のちょうどいい場所に穴を掘って、真水だけを汲み取る井戸。但し、飲み水には使えないらしい。



ファンでも何でもないんだが、三浦春馬という30歳の俳優が首をつって死んだらしい。『世界は欲しいものにあふれてる』というNHKの番組のMCをやっていて、何回か観たことがある。自殺の理由は公表されてないが、基本、男は「生き続けている方が奇跡」の生き物。それを忘れちゃいけない。

2020年7月17日金曜日

「どん兵衛きつねうどん」に、生卵を落としてからお湯を注いで食べると旨いことを発見した


2020年7月17日 金曜日/晴れ。今日も昨日と同じでさほど暑くはない。


予約しないと焼いてくれないアンジュ(近所のパン屋)のバンズは、そのまま食べても極旨い。



「どん兵衛きつねうどん」に、生卵を落としてからお湯を注いで食べると旨いことを発見した。残った汁に白飯を入れて食うと、鍋の残りで作る雑炊のようでまた格別。全体、日清のインスタント麺は、初代の「チキンラーメン」の食べ方、すなわち、生卵を落として湯を注いで食べるようにできているのではないのか、と思った。



食材の管理がゆるくて食中毒を出した飲食店と、コロナ対策が甘くてコロナ感染者を出した飲食店の違いはなんだろう?



知性にとって、[安楽死/尊厳死]という選択肢は、妊娠中絶という選択肢と同じ種類の不可欠なもの。その二つが違うものに思えたり、そもそも論外なものに思えたりするのは、生命の視点からそれらを見ているから。しかし、人間は、生命ではなく知性である。生命は人間にとって[手段/道具/媒体]にすぎない(意味がわからないと思ったらこう考えればいい。人間は主にタンパク質と水からできているが、誰も、タンパク質と水の視点で人間のアリヨウを考えたりはしない)。



猫缶の蓋を開けるとき。最後に本体から蓋を切り離す瞬間、中身の汁がピンっと跳ねるのがずっと癪に触っていたのだが、さっき「そもそも切り離す必要はないじゃないか」という声が聞こえて、ああ、そうだ、と思った。



『ドキュランドへようこそ』で、マリー・アントワネットの最後の数日を取り上げた番組を観て思ったが、「フランス革命」って、内情は「文化大革命」と大差ない気がする。どちらも「ソレで得をする連中たち」が、「愚かな」民衆を焚きつけて理不尽なことを遣り尽くした出来事。で、今の中国は文化大革命などなかったような顔をしているが、フランスは今もフランス革命を誇ってる気がする。



『サピエンス全史』に拠ると、1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、最も高貴な客たちをもてなすために、アルミニウムのナイフやフォークなどを作らせた。一方、それほどでもない身分の客たちは金のナイフやフォークで我慢させられた。つまり、当時はアルミニウムを分離する高度で洗練された技術がなかったので、アルミは金より高価だったということ。しかしそれも19世紀の末に科学者たちが大量のアルミを安価に分離する技術を作り出すまでの話。