2019年6月30日日曜日

アナトー・シキソの「粗忽長屋」


ウチでぼんやり火星探査機キュリオシティの行く末を考えていると、アイツが来て、オレが死んでると云う。マルイのスーパーの前で死体になって転がってると云う。見物人だか野次馬だかがいっぱい集まってミットモナイたらありゃしないと云う。

マサカと思い、少し考え、マサカと云った。オレは今、煙草の先に灯る火を眺めながら、火星の砂の上でやがて孤独に朽ち果てる探査機について、詩的な思いに耽っていたのだ。こういうことは死んでいては出来ないはずだろ?

それに対してアイツは、そんなことはモンダイじゃない、現に死体はあるのだ、とやや強い口調で主張する。更に、おそらくオマエは、ドッペルゲンガー現象に於ける、怖がる方ではなく怖がられる方に違いないと付け足す。そしてすぐに、その姿を見たら死ぬと云われるドッペルゲンガーの、死ぬ方ではなく、見られて殺すほうなのだ、と云いなおし、分かるか、分かるだろう、とオレに迫った。

イヤ、とオレは答えた。分からないなあ。

実際に行ってミテミレバ分かる、とアイツが云うので、オレは科学雑誌の最新号を畳み、煙草を消し、飼い猫のためにほんの少し窓を開けたままにしてアイツと出掛けた。

オレの死体があるというスーパーのマルイの前はケッコウなヒトダカリだった。警察もどうしてさっさと死体を片づけないのだろう、とオレは思う。アイツが人垣をかき分け、オレが続く。

スーパーのロゴ入りの大きな足拭きマットの上に布を被せられた死体があり、その脇に制服警官が一人立っている。イキダオレだと制服が云う。イキダオレというのは心不全と同じで、理由は分からないがとにかく死んだのだ、と云うかわりに使う空疎なコトバだ。警官が死体に被せた布を捲ると確かにオレと同じ顔。背格好もそっくりだし着ている服まで同じ。マルイの衣料品コーナーの今週の特売品。

どうだい、とオレは訊く。アイツは、そっくりだ、イヤ間違いない、コレは確かにオレだと答える。そうだろう、だから云ったんだ、とオレ。

しかしマイッタな、とオレは思う。これで何人目だ? オレは警察無線に手を伸ばし、思い直して引っ込める。死体を含めここに集まっている全員がオレなのだ。周りの野次馬も今やって来た二人連れも。

困り顔の警官と目が合ったオレはそっと野次馬たちから離れる。あの死体の顔、まず間違いない。しかしここは当人に確かめさせるのが一番だ。電話が鳴った。出た。
「おい、お前、死んでるぞ」

2019年6月29日土曜日

アナトー・シキソの「赤ずきんちゃん」


もし人間が狼に襲われて食われても、何の痕跡も残さずこの世界から消えてしまうことはない。魂の話じゃない。肉体の話。人間が肉食動物に襲われ食われたとしても、食い残しが現場に残る。その食い残しをスカヴェンジャー達が片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消える。

その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれた(ハラワタだけを食われたのだろう)バアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の頭部と、多分その女の子のものだろう、人間の小さな右手だった。既に狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。独特の、嗅ぐとイライラするニオイだからだ。確かに、狼と同じように、人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回、バアさんと女の子をこんな姿にしたのは快楽殺人者ではない。狼だ。

理由。

狼は殺すのではなく、食う。そして食う行為は遺体をひどく損傷させる。そのために、その遺体は、快楽殺人者の悍ましい「作品」のようになるが、ある点が決定的に違う。それは命に対する執着だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に、そもそもが命に取り憑かれて狂った人間である快楽殺人者の殺戮には、当然のように命に対する病的な執着の跡がはっきりと残る。そこが違う。

山小屋の殺戮には命に対する執着の痕跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でないのであれば、俺の出番はない。動物の老いた個体や幼い個体が肉食動物の餌食になるというのは自然界ではありふれた光景であり、むしろ健全な命の営みとさえ云える。

俺は中立を守って引き下がった。

だが、俺の予想どおり、人間達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかったようだ。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の山猫、そして一組の狼のツガイが「容疑者」として猟銃で撃ち殺された。

命の「収支」が合わなくなることなどお構いなしだ。

村人達は、ツガイの狼のうち、大きなオスの方を「犯人」と断定し、その死体を村の中央の広場に吊るすと、石を投げ、棒で突き刺し、皮をはぎ、最後に火あぶりにした。それから火の周りで酒を飲み始め、歌ったり踊ったりして夜中まで騒いだ。

次の日、村に行くと、広場に吊るされていた狼の死体は消え、村人の姿もなかった。

俺は、村のアチコチでたくさんの赤い頭巾を拾った。

アナトー・シキソの「早すぎた埋葬」


もっとも恐ろしいのは死ぬことか? 否。なぜなら死は体験ではないから。死は決して体験されることのない永遠の虚構。決して体験されない虚構に恐怖を抱くのは、自分ででっち上げた怪談話が恐ろしくて夜中に便所に立てなくなるようなもの。メタ世界を生きる人間ならではの愚かな妄想。

余談だが、臨死体験者の語る体験は断じて死の体験ではない。生(せい)の体験だ。臨死体験者の誰ひとりとして死者になったことはない。彼らはその時も、それを語る時もずっと生者である。彼らは、こちらの瀬戸際を、あたかもあちら側であったかのように思い込み語る。逆のことが、胎内にいる間や、眠っている間、泥酔で記憶をなくした間に起きている。その間を確かに生きていたという自覚はひとつもないが、人は決してそれを「臨死」とは呼ばない。

ポーの『早すぎた埋葬』が読者に突きつけるのは[死にかける=瀬戸際の生]の恐怖ではない。生きながら閉じ込められること。それが『早すぎた埋葬』にある恐怖だ。一切の身体的自由を奪われた状態で生き続けること。それが人間にとって最大最悪の恐怖である。

ポーが恐れたような早すぎた埋葬は、医学の発展により取り除かれた。すなわち、誤って生きたまま埋葬される人間は、現代社会に於いてはまず存在しない。しかし喜んでばかりもいられない。前のめりの医学と、頑固な生命教信仰が絡み合って、人間の死に対する社会の態度は大きくつんのめった。

いまや新たな恐怖が出現したことを私は知っている。

それは、いわば「遅すぎる埋葬」。「無の安楽」へと向かおうとする者の足首を掴んでこの世に引き摺り戻し、重篤な機能不全を起こした[肉体という棺桶]に閉じ込める、この上もない残虐行為だ。

この「遅すぎる埋葬」のうち最も恐ろしいのが、いわゆる「完全閉じ込め症候群」である。例えば、筋萎縮性側索硬化症の進行によって、眉ひとつ動かせない状態になっても、あるいは、自力呼吸すら出来ない状態になっても、現代の呪われた医学と生命教信仰が人間を生かし続ける。

だがこれは、新たな「生き埋め」なのだ。

死んだ肉体にその魂が生き埋めにされること。それこそが現代版『早すぎた埋葬』の恐怖であると私は主張する!

「何にも知らないくせに。誰がこんなこと書いてるのかしら」
妻はスマートフォンから目を上げると、見開いたままでマバタキしない夫の、真っ赤に充血した両目に定時の目薬を注した。

——何も知らない?

2019年6月28日金曜日

アナトー・シキソの「般若心経」


本名アヴァローキテーシュヴァラという長い名前の、みんなはナゼかカンノンと呼んでる体重150キロの女装家が、ハンバーガー屋の窓際の席で僕に云う。

宇宙空間に1人漂っていると想像してみなさいよ。その宇宙にはたったひとつの星しかないの。そんな宇宙はアリエナイけど、まあ、あると想像しなさい。真っ暗な宇宙空間の遥か彼方にその星が見えている。小さな白い点。さて、この時、その星を眺めながらアンタはほんの少し横にズレる。星は見えなくなるかしら。

ならんね。

そうね。じゃあ、次に、光速宇宙船に乗ってその星から百光年ほど離れたら、今度は星は見えなくなるかしら。

宇宙の年齢にもよるけど普通は見える。

ここで注文していたチキンバーガーが運ばれて来る。僕の奢りだ。カンノンはチキンバーガーをウマそうに食う。肉食上等。カンノンはバーガーを平らげ、バニラシェイクをズコズコと飲み干したあと、あーっと満足してから、静かに手を合わせた。

つまりなに、と僕は催促した。カンノンは、うん、と云ってからさっきの続きだ。

星がたったひとつしかない宇宙空間で、最初の位置でも、少しズレた位置でも、百光年離れた位置でも同じく星が見えてしまうということの意味よ。あと、こういう想像もいいわね。アンタの後ろに、もう1人誰かがいる。その誰かはアンタのすぐ後ろにいる時はアンタがジャマで星が見えない。けど、アンタから百光年も離れた後ろにいれば、やっぱりちゃんと星は見える。この意味を理解するのよ。つまりね、この場合たったひとつの星しか存在しない宇宙の、少なくとも百光年以内の領域に、そのたったひとつの星から発せられた光が満ちているということ。だいたい殆ど隈無く。

へえ。

分かってないわね。それはつまり、その星が見える限り、真っ暗な宇宙空間はその星の外部ではなく内部だということよ。その星が見えるということは、その星の光の海の中にいるってことだからね。

そうなのかな。

そうよ。そしてこのことはひとつの真理を示してる。すなわち物質とは干渉する空間にすぎない。アンタが、存在すると確信してる物質も、本当のことを云えば、アンタが、何もないとみなしている宇宙空間と同じということね。干渉する空間であるアンタが干渉可能な空間だけを限定的に物質とみなす。それだけのことよ。この世界にはただ空間だけが、厳密には時空間だけが存在する。無いだけが有る。これぞ即ち、色即是空、空即是色。

アナトー・シキソの「アリとキリギリス」


「本当はキリギリスじゃなくて、セミだけどね」とアイツは云った。

大雪の夜、赤茶けたコートを羽織り、真っ黒いマフラーを顔まで巻いて、大きな帽子の広いツバの下に目だけを光らせてアイツはやって来た。腹が減ったという。金もないし食料もない。なんか食わせてくれないか、と。働かないから金がないのは当然だ、とオレは云った。するとアイツは、イヤ、働かないんじゃない。僕は充分働いている。ただ、稼げてないだけだ、と反論した。どちらにしろ食えることをして来なかったオマエが悪いのさ、とオレは云った。

だが、家には入れてやった。このままオマエを追い返したらまるっきり「アリとキリギリス」だからな、と云ったオレに対してアイツが返した言葉が冒頭のセリフ。

「ヨーロッパの南の方にいたセミが北の方にはあまりいなかった。だから、あの話が南から北に伝わったときに、セミがキリギリスになった。その北版がこの国に来た」

どうでもいいよ、とオレ。冷蔵庫を開けると魚肉ソーセージが二本入っていたので、一本を自分用に、もう一本をアイツ用に出した。さらに、本棚の奥にジャックダニエルごめんなさいがあったので、それを引っ張り出して中身を調べたら、瓶を傾けて正三角形が出来るくらいは残っていたのでそれも出した。

オレは気前がいい、と自分でも思う。

アイツはストーブの真ん前に陣取って、帽子も取らずコートも脱がずマフラーさえ巻いたまま、腕組みして椅子に腰掛け、体中にこびりついた雪を溶かしている。オレは、アイツの前に丸テーブルを引いて行き、その上に魚肉ソーセージを一本と、ジャックダニエルの瓶とグラスを二個を置いた。アイツはそれをちらりと見て、また口を開いた。

「どうでもよくはないさ。これは昆虫学的な大問題だ。つまりね、セミがキリギリスになってしまうと、あの寓話は成立しなくなる」

オレは自分用の魚肉ソーセージを袋から取り出し、ビニールの皮を剥いてピンクに着色された魚のすり身を一口齧った。これは人間用のペットフードだ、と思う。好意的な意見として。二個のグラスにウィスキーを注いで、オレは自分だけさっさと先に飲み、どうして成立しないんだ、と訊いた。

「どうしてもこうしても、木の汁を吸うセミなら食料を恵んでもらわなければ、確かに冬は乗り越えられんだろうが、キリギリスは雑食だ。アリの家に辿り着いたら食料なんて恵んでもらう必要はない。まずは目の前のアリを食えばいい」

2019年6月27日木曜日

アナトー・シキソの「頭、テカテカ」


その青くてスゴイのが机の引き出しから出て来たときには、もう、完全にホラー映画の一場面だった。海坊主かコケシのお化けみたいなカタチ。オレはまだ小学生で、死ぬほどビビった。その時、家にはオレ以外誰もいなかった。

頭周りが2メートルはあるその青くてスゴイのは、自分は二百年後の未来から来たと云った。過去を操作して未来を良くするのだとも云った。具体的には、オレを真人間にして、オレ発信で悲惨なことになっている未来のオレの子孫たちの暮らしぶりを大きく改善させるのだと云った。

オレは、ヤレヤレと思った。時間旅行は、天動説と同じ人類の迷妄さの産物でしかないことを、オレは当時、すでに理解していたからだ。学校の成績はぱっとしなかったが、それはオレが小学生レベルを大きく越えた頭脳の持ち主だったからだ。

この青くてスゴイのは、未来から来たと云うより、あの世から来たと云ったほうが、まだオレに信じてもらえただろう。だがオレは、迷妄な相手のレベルに合わせることにした。オレはそういう小学生だったのだ。

オレは、過去を弄って未来をより良く変えることは可能なのかと訊いた。相手は可能だと答えた。オレは、より良い未来にいるアンタは過去を操作する動機を失うのではないかと訊いた。相手は、ジブンは悲惨な未来から来たが、より良い未来のジブンは過去には来ないだろう。確かにより良い未来のジブンには過去を操作する動機はないと答えた。オレは、それは未来がいくつも存在するということかと訊いた。相手は、そうだ、パラレルワールドだと答えた。

オレはポケットからハイライトを取り出し、相手にも一本勧めた。オレたちはあぐらをかいて向かい合い、しばらく黙って煙草の煙を吸ったり吐いたりした。当時は小学生も普通に煙草を吸ったのだ。

オレは、4歳の時に千年後の未来の子孫の手によって脳の機能強化訓練を受けたことをまず話し、8歳の時には二千年後の未来の子孫によって不老不死の肉体改造手術を受けたことを話した。そしてつい先日、一万年後の未来の子孫の計らいで、その時代の勉強法の定番である瞬間理解洞察装置を使ってM理論を学んできたばかりだと云った。明日からは、50億年後の子孫の案内で、太陽系の終焉を見物に行くことになっていることも付け足した。

それを聞いた青くてスゴイのは、大きな口に真っ白な歯をずらりと並べてニヤリと笑うと、煙草の煙と共に、ふわりと宙に消えてしまった。

2019年6月26日水曜日

アナトー・シキソの「アッシャー家の崩壊」


隠者というものがこれほど面倒くさい人間だとは思わなかった。知識があり、智恵もあり、だが社会との関わりを絶って生きている人間は、俺が普段接している人種とはまるで違う。世間的な常識や気遣いはこういう類いの人間には全く存在しないらしい。それが証拠に、この老人は、何日もかけて遠くからやって来た俺を、扉も開けずに追い返そうとしている。しかも外は暗く雨まで降っているのだ。にもかかわらず、そのまま回れ右をして帰れと云い放つその感覚が俺には分からない。

全身を覆う甲冑の内側を大量の雨水が伝うのを感じながら、俺は何とかこの年寄りに云うことを聞かせようと頑張った。だが、世界の傍観者を気取る、本当は無力な田舎者の老いぼれは、頑として俺の要求を受け入れない。社会から必要とされない者は、逆からも必要とはしないのだろう。社会的に価値があるとされる金も地位も名声も義理も責任も、扉の向うの嗄れ声をなびかせることは出来なかった。

分厚い木の扉のわずかに開いた小さな覗き窓から目玉だけを見せて、因業ジジイが俺に云った。

私がオマエに対して扉を開けないのは、そうすることに意味があるからだ。私のこの話が終わったあと、オマエはしびれを切らせて〈いつものやり方〉を実行する。すなわち、この分厚い扉を、オマエのその恐ろしい鎚矛で叩き壊し、ムリヤリ私の庵に押し入る。そして、無抵抗な私の脳天をその鎚矛で打ち砕いて私を殺すのだ。オマエは当初の望みどおり、あの真鍮の楯を手に入れるだろう。全ては起こるとおりに起こる。だが、ここで起きていることが本当に起きていることではない。

ワケの分からないことを云う。それならお望みどおりに、と俺は決心する。本当は手荒なマネなどしたくはなかったのだが、老人の云う俺の〈いつものやり方〉ならコトは簡単に済む。これ以上雨に降られながら扉に張り付いて猫なで声を出す必要などない。俺は鎚矛を背中から抜き、両手で握って構えた。

始めからこうすれば良かった。

頭を割られて動かなくなった老人を眺めながら、戸棚にあったワインとパンで腹ごしらえをしたあと、俺は老人が隠し持っていた真鍮の楯を背負って、庵の床の血だまりを跨いで外に出た。いつの間にか雨は上がっていて、空には月が見えた。血のような真っ赤な色をした沈みかけの満月。

その真っ赤な満月から逃げるように男が一人走って来る。何度も月を振り返るその男のことを俺はもちろん知らない。

「真っ赤なニセモノなヤツ」


「連邦政府からの独立を目指した父は、志し半ばで暗殺された。その後、暗殺者たちは、父の名を冠した国を独裁し、全人類を巨大な戦渦に巻き込んだ。それが先の大戦、人類初の宇宙戦争だ。しかし、暗殺者たちは最初から破れ去る運命にあった。所詮、旧世紀の軍人や政治家たちが様々な形で目論んだ世界征服を宇宙規模に拡大したに過ぎないからだ。世界を征服しようとする者は、最後には世界によって征服される。世界は人よりも大きいのさ。人は世界の部分に過ぎない」

総帥はそう云って、大きな椅子に腰を下ろし、赤いド派手な総帥服の詰め襟のカラーを緩めた。俺が煙草に火をつけると、片方の眉を怪訝そうに歪めてなにか云いかけ、だが、何も云わず目を閉じた。

「私は彼らとは違う。私は世界を征服するつもりはない。ただ、世界の部分としての人類を正しく導きたいだけだ。これからますます増えていく新たな人類のために、世界ではなく、人類を、それにふさわしいものに作りなおしたいのだ。この戦いは、そのための、私が人類に与える試練であり、この試練を乗り越え、この試練から学ぶことでのみ、人類は宇宙人類としての自覚と新たな世界観を持つことが出来る」

俺は煙を吐いて、アンタのアイディアか、と訊いた。総帥はイヤと首を振り、「理念は父が残したものだ。だが、具体的な方法は私が考えた。父の理念は、息子である私によって実現への道筋を付けられ、そして、それは間もなく現実になる。人類はようやく地球の引力から自由になるのだ」

総帥はそう云うと、椅子に身を沈めて眠り込んでしまった。

人間は不思議なものだ。この男は一体、どの時点で、自分をクダンの革命家の忘れ形見だと思うようになったのか。本物の忘れ形見である兄妹うち、この男が自分がそうだと思い込んでいる兄の方はとっくの昔に裏切り者の一族の手によって暗殺されている。そして、正体を隠して生き延びた妹とこの男とは、遺伝的に何の繋がりもないことが証明されている。つまり、この男の正体は、別人になりすましていた本物などではなく、本物だと思い込んでいるタダの別人、つまりは真っ赤なニセモノなのだ。にもかかわらず、周囲の人間も、そして本人も、その事実を受け入れようとはしない。そして今、この真っ赤なニセモノは、父の理念を受け継いだ息子として、巨大な小惑星を地球に落とそうとしている。

「正統なる者」という人間の虚妄に、俺は含み笑いが止まらない。

2019年6月25日火曜日

「祟られたヤツ」

猫に祟られた。

隣の席に座って酒を飲んでいたこの辺りでは有名なアル中が、突然俺に云った。昨日ついカッとなって飼っていた黒猫を殺したら、そのタタリで家が火事になって、全財産を焼いてしまった、と。

アル中嫌いの俺は、アル中の癇癪で殺された猫を気の毒に思った。そして、全財産を失ったアル中には何の同情も覚えなかった。自業自得。どうせ酔っぱらって寝たばこでもしたに決まっている。だいたい猫はただのケモノ。祟るものか。

しばらくしてまたそのアル中に会った。アル中は、カミさんを連れて二人で安いボロ家に移り住み、そしてまた猫を、しかも前のとそっくりの黒猫をどこかで拾ってきて飼い始めた。アル中は上機嫌で、今度はかわいがるよ、言った。俺は、どうだか、と思った。アタマのブレーキは何年も前から壊れている。酒の毒が回りきって行動に歯止めが利かない。どうだか。

アル中は詩人で、昔はいい詩を書いていた。だが、脳がアルコール漬けになってからは、奴の詩よりもこの酒場のメニューの方が人を魅了する。しかし当人は今でもいい詩人のつもりだ。

数日後、予想通りアル中は猫を相手に癇癪を起こし、反射的に手斧を掴むと、猫めがけて振り下ろした。だが、手斧は、猫ではなく、カミさんの頭を叩き割っていた。カミさんが反射的に猫をかばったためだ。カミさんは自分が死んだことにも気づいていないだろう。

一瞬呆然となったアル中だが、しばらくすると、地下室の壁に穴に開け、そこに自分が殺したカミさんの死骸を埋めて隠す作業を始めた。作業の間、俺もその場に居た。俺はアル中に云った。カミさんと一緒にオマエの黒猫が穴に入ってるぞ。するとアル中は、いいのさ、と答えた。

こうやって妻の死体と一緒に生きた猫を入れておけば、警察が僕を怪しんでここに踏み込んできた時、きっと中で猫が鳴いて警察に死体の隠し場所を知らせるだろうから。

そう云ったときのアル中の謎の微笑み。

噂を聞きつけて警察が踏み込んできた。だが、殺人の痕跡はアル中の手でにきれいに消し去られている。警察は地下室も調べた。何も見つけられない。あと少しでうまく隠しおおせるという時、アル中の予言通り、壁の中の猫が鳴いた。警察は地下室の壁を壊し、その穴の中に、鳴き叫ぶ猫とカミさんの腐乱死体を見つけた。

捕ったアル中は、黒猫の祟りだと震えながら死刑の日を待っている。自分がわざと猫を穴に入れた事など、もう、少しも覚えていない。

2019年6月21日金曜日

アナトー・シキソの「若返りの水」


田舎に住んでる年老いた両親と急に連絡が取れなくなったので代わりに様子を見て来てくれと依頼され、僕は山陰地方の村に来た。勝手に平屋の百姓家だと思い込んでいたら、ヘーベルハウスの三階建てでいきなり面食らう。

インターホンを押して出て来たのは女の赤ん坊を抱えた若い男だった。訪ねた事情を説明すると居間に通された。ソファに腰を下ろしても、田舎に住んでる年老いた両親らしき人物は現れず、代わりに、僕を案内した足でそのまま僕の向かいに座った若い男が、自分がその〈年老いた父親〉でこの赤ん坊がその〈年老いた母親〉だとデタラメを云った。

「若返りの水というのがあるでしょう」と自称年老いた父親の若い男は僕に云った。「それが理由です」。なるほど、と僕は答えた。事情を聞きましょう。

「まず私がその若返りの水を飲みました。そうしてすぐに八十九の死に損ないから生気あふれる青年に若返ったのです。次は家内の番です。私は男ですし、まあまあ人並みに分別もあったオカゲで、飲む量を加減して、ちょうどよい年に若返ったのですが、家内は女ということもあって、とにかく若ければ若いほどいいと水を飲み過ぎたのです。普段はそこまで分別のない女でもなかったのですが、こと若さに関しては、女の際限のない執着心というのが出てしまったのですなあ。その結果がこれですよ」

若い男はそう云って、ソファの上で仰向けに眠る赤ん坊を見た。ぎゅっと握った手は全くの乳飲み児。

「電話が通じないのは何日か前の台風でこの家の引込線が切れて、それをいまだに直してもらえてないからです。情けないことに線が切れてることを電話局に気付いてもらえてないのですよ」

なるほど、と僕。ところでその若返りの水は今どこに?

「それは、もうありません。家内が全部飲んでしまいましたからね。しかしアナタには必要ないでしょう。見たところアナタはまだ充分に若い」

いや。そういう意味で訊いたのではないのですが……

居間の奥のふすまの隙間から、布団に寝かされた二つの白髪頭が見えた。

「気がつきましたね。アレは若返る前の私と家内です。と云っても、使い古しの抜け殻ですがね。若さを取り戻した私たちにはもう必要ありませんが、やっぱりね、なかなか、そう簡単には捨てられないものです。何と云ってもアレもまた私たちですから。だから、ああして未練がましく置いてあるのですよ」

布団に寝かされた二つの頭は妙な音を出して少し動いた。

アナトー・シキソの「三億円事件」


有名な話。白バイ警官に偽装し、現金輸送車を呼び止め、車に爆弾が仕掛けられていると嘘をついて銀行員たちを追い払い、悠々と現金輸送車を奪い去った事件。その時、その現金輸送車で運ばれていた現金がざっと三億円で、だから「三億円事件」。

と、世間は云うんだけど、実は違う。あれはただの現金輸送車乗り逃げ事件。肝心な所が違うから。もっとも肝心な所。その事件の名前にもなってる三億円。

そんなものなかった。

オレは、世間で知られている通りにまんまと現金輸送車を奪い取り、隠してあった逃走用の車に金の入ったジュラルミンケースを移そうとしてギョッとなった。

ケースが思っていた以上に軽かったからだ。

でもまあその時点で中を確かめてる手段も余裕もなかったので、札束ってのは意外に軽いんだな、いや、オレが興奮してるから重さを感じないだけなのかも、と自分を納得させて積み替え作業を済ませ、逃走用の車でアジトに戻ると、ジュラルミンケースを三個ともアジトに運び入れ、そこに用意してあった工具を使ってケースをこじ開け、中に〈三億円は確かにいただいた。ルパ〜ン三世〉という紙切れ(ルパンの似顔絵付き)が一枚だけ入っているのを見つけて驚いてひっくり返った。

ケースは三個ともカラだった。

つまり、のちに世間がそう呼ぶところの「三億円事件」を俺が実行した時には既に、三億円はルパンによって盗まれていたわけだ。

で、問題はその時のオレが「ルパン三世」なる野郎を全く知らなかったことだ。オレだけじゃない、今でこそこの国で知らぬ者などいない「ルパン三世」だが、当時は無名もいいところ。アニメの全国放送が始まるのはその何年もあとのことだ。

本家のアルセーヌ・ルパンのことならうっすら知っていたが、あれはフランス人で、フィクションで、もう死んでる世代だからオレの獲物をかすめ取ることは不可能だ。当時のオレは世間とは違う意味で「三億円事件」が大きな謎だった。つまり、ルパン三世ってのは何者なんだ、と。その後ルパンが有名になって納得し諦めたわけだが。

ただ、こうも思う。

ルパンにとってあの「三億円事件」は、世間に対して「ルパン三世ここにあり」を宣言する打ち上げ花火的な仕事だったはず。けど、ルパンが残したメッセージの紙切れはオレが丸めてゴミ箱に捨てた。だから世間は誰もそのことを知らない。つまりオレは意図せずに、あのルパンに一杯食わせてやったことになるんじゃないか、と。

2019年6月19日水曜日

アナトー・シキソの「蜘蛛の糸」


昨日と同じように、いや、百年前と同じように、今日も血の池地獄の血の中で浮かんだり沈んだりしていてふと気付いた。血の池のはるか上空から垂れ下がっている細いヒモを誰かが必死に登っている。見ればアイツはカンダタだ。独特のヘアスタイルで分かった。生きてるときは俺の盗賊仲間で、お互いさんざん人を殺して一緒に地獄に堕ちた。アイツが今、必死でヒモを登ってる。

その下に目を移せば、ヒモを登っているのはアイツだけじゃない。千年も二千年も血の池に浸かったせいですっかり体の肉が崩れてしまって、もう男か女かも見分けがつかなくなったような先輩亡者たちが、カンダタを追うように登っている。

これはチャンスで、俺も連中に続くべきなのか?

だが、血の池は広い。池と呼ぶのはオカシイ。海ではないが湖くらいはある。俺は今、血の池の端っこにいて、カンダタたちが登っているヒモは池の中央辺りに垂れている。ちょっと本気でその気にならないと、ここからあそこまで泳ぐのはそうとうに億劫だ。

だから、血の池の番人の赤鬼が口から火をちょろちょろ出しながら「貴様はアレを登らんでいいのか?」と訊いた時にも、面倒だからいいと答えた。「アレを登り切れば、極楽に辿り着けるらしいぞ」と、赤鬼は目玉をギラギラ光らせて俺を焚き付ける。知ってる。しかし、あんな細いヒモにあんなに大勢がしがみついてる。これ以上人数が増えたらヒモが保たないだろう。せっかくアレで極楽に行ける者がいるなら、無事に行ってもらいたい。だから自分は遠慮する、と俺は答えた。赤鬼はゲラゲラ笑い、俺は百年変わらぬ日課に戻って血の池の底にぶくぶく沈んでいった。

血の池に沈むと俺たち亡者は溺れる。水ではなく血をがぶがぶ飲んで、息ができなくなる。溺れる苦しみを散々味わい、それで意識を失うと、その間に体は浮かび上がる。浮かび上がってくると意識を取り戻す。そしてまた沈む。その繰り返し。亡者だから絶対に死なない。溺れる苦しみが延々と続く。それが血の池地獄。

俺はいつも通り血の池の底で溺れて意識を失った。そして、浮かび上がり意識を取り戻したら、そこは血の池ではなく蓮池だった。水面から仰向けに顔だけ出した俺の額の上を小さな蜘蛛が歩いている。額に蜘蛛を乗せて、俺は、百年ぶりに青い空を見て澄んだ空気を吸った。俺は知らなかったが、どうやら生前、俺が逃げるのを急かしたせいで、カンダタはこの蜘蛛を殺し損ねたらしい。

アナトー・シキソの「銀河鉄道の夜」


子供の時、祭りの日に友達が川で溺れ死んだ。

当時のオレんちはけっこうな貧乏で、オレは、朝の新聞配達と放課後の印刷所の手伝いで家計を助けていた。オヤジは何かヤラカシて刑務所にいたし、オフクロはだいたい寝込んでまともに働けない。姉貴は、最初のうちは健気に貧乏に耐えてたけど、結局男を作ってどっかに消えた。振り返ってみるとけっこうキツい。けど、リアルタイムではソレホドデモなかったから不思議だ。住む家があって学校にも普通に行けてたからだろう。

あとで振り返って気付くのが子供時代の貧乏なのだ。

オレは祭りに全然関心がなかった。祭りだナンダと云ったところで、子供にとっては夜店でナニカ買うことだけが楽しみなのだ。つまり、少なくとも周りの同学年と同じ程度の小遣いを持っていなければ、祭りの日に賑やかな場所に行っても疎外感を味わうだけ。

というわけで、オレは、配達され忘れた牛乳を取りに、賑やかな場所とは反対にある牛乳屋に向かった。必要もないのにツキアイで取らされてる牛乳。こんな理由でカネを使ってるから益々貧乏になるんだと今なら分かる。

牛乳屋に着くとツラそうな顔をしたバアさんが出てきて、今は家のモンがいなくてアタシにはよく分からんからまたあとで来てくれ、と云った。オレは、じゃあそうします、と答えて店を出た。帰り道、同級生たちが騒ぎながらこちらに来るのに気付いたオレは、灯のない小さな公園に入って、ゾウの滑り台の陰に隠れた。

人間の子供と呼ばれる生き物の絶対的なタチの悪さを子供の時に思い知ると、その後の人生に於いて、人間という生き物自体を深い部分で信用しなくなり、その不信は一生回復しない。

同級生たちをやり過ごしたオレは公園のベンチの上に寝転んだ。朝も夜もバイト漬け。オレはベンチの上で夜空を見てるうちに眠り込んでしまった。そしてその間に凄くイヤな夢を見た。具体的な中身は目覚める瞬間に忘れた。イヤな夢を見たということだけを覚えていた。

遠くで救急車のサイレンが鳴っている。

翌朝学校に行って、そのサイレンが祭りに来ていて川で溺れた子供を病院に運んだ救急車のモノだったことを知った。病院に担ぎ込まれた時にはもう死んでいたその子供というのが、当時のオレにとってのたった一人の友達だった。

誰かがわざとそうしてるとしか思えないことが起きると、人はつい途中で汽車を降りてしまう。そこが終点だと思ってしまう。そんなものはないのに。

2019年6月12日水曜日

アナトー・シキソの「雪女」


たとえ雪深い北国じゃなくても、冬の荒れた夜のホッタテ小屋で火も焚かずに寝入ってしまったら、そりゃあ命の保証はないよ。年寄りが死んで若い方がどうにか生き残ったのは、雪女がどうとか、そういうんじゃなくて、単に体力差、生命力の違いだ。

あの遭難死亡事故には不気味も不可思議も何もない。実際、当時誰ひとりとしてそんなことは思いもしなかった。ああいう情況ではよくあることだから。老人が死んで若者が生き残った。自然の摂理だよ。だから、今になってそんなことを云い出すのはオカシイのさ。女房の正体がその時会った雪女だったなんてね。

アタシに会ったことをバラしたらアンタも殺すって雪女に脅されたってのも、当人ひとりが云ってるだけ。しかも、そんなこと云った雪女は、あとで偶然を装って男に近づいて、一旦は殺そうとした男の嫁になって子供まで生むってのはナンダカ支離滅裂じゃないか。バケモノだからやることが支離滅裂なんだって云うんなら、そもそも黙ってたら殺さないっていう約束自体、まるでアテになりはしないし、結局、約束を破って口外しても殺されることはなかっただろう?

どうにも一貫性がないよ。

ボクはね、この件では怪奇性よりも事件性を強く感じてるんだ。つまり、数年前の遭難事故にではなく、今回の突然の女房失踪に対して。

要点はふたつ。何年経っても老け込まない女房と異常な子だくさん。

確かに、百姓仕事の過酷さのせいでみんながみんなすぐに容姿がクタビレるとは限らないよ。個人差はある。ただ、そこに異常な子だくさんという要素が加わるとそうも云ってられない。あの家で何人の子供が生まれたか知ってるかい?

そう、5年で10人だ!

毎年二人ずつ生んだのか、五つ子を二回に分けて生んだのかは知らないけれど、まず人間業じゃないよね。10人の子持ちはそりゃあ探せば他にもいるだろうけど、5年で10人は、まず、いない。

過酷な野良仕事に加え、短期間での大量出産は間違いなく肉体を蝕む。にもかかわらず女房はずっと若々しい。5年で10人の子を生み、しかも若さを失わない女房は、確かにその点でバケモノじみている。だから雪女なのか?

いやあ、違うね。

真相は、あの家には複数の女房がいたということさ。少なくとも3人はいただろう。ボクは断言するよ。今回、女房は雪になって消えたんじゃない。死体になってどこかに埋められている。しかも、埋められている女房の死体は一つだけではない。

アナトー・シキソの「狙われた街」


これは遠い未来の話ではない。ほんの数日前の出来事だ。
黄昏れた狭い和室でちゃぶ台を挟んで俺と差し向かいに胡座を組んで座った異星人には首も肩もない。そのシルエットは触覚を切り落とされて坊主になったバッタそのもの。異星人はその異形に似合わない紳士的な口調で、協力して欲しいと云った。

「消極的な協力で構わない。つまり見て見ぬフリでいい。異星人同士でやりあうつもりはないのさ。君だって苦々しく思っているはずだよ。この惑星の連中が貴重な宇宙資源を台無しにしようしているのは明白だし、居住可能な惑星の希少性を君が知らないわけもないのだから」

「確かに」と俺。「俺が見るところ、ここの連中は貧しい知識とおぼつかない手つきで、粗末で危険な装置を作り上げ、繁殖本能に支配された社会システムによってそれらを運営している。そのせいで、この惑星始まって以来の生物種自身による大量絶滅を引き起こしかねない状況だ。つまり自殺的大量絶滅だな。しかしどうだろう。一般に大局を見ないのが生物だ。例えばウニは昆布を食い尽くして海を砂漠化する。そしてその砂漠化のせいで自らも滅びる。つまり、ただ彼らのみが問題なんじゃない。あらゆる生物種は自殺的大量絶滅を引き起こす歪みを本来的に持っている。どんな生物種も一定以上の勢力を得れば、大量絶滅のひとつの素因になる」

異星人は茶筅のような手を挙げて頷く。

「そのとおり。しかし希少性の高い居住可能な惑星環境を保全するために、勢力を持ち過ぎた未熟な生物種を排除することは、宇宙全体の公益性の観点から頗る妥当な措置ではないかな」
反論しようとする俺を制して異星人が続ける。

「何も連中を絶滅させようと云うんじゃないんだ。居住区を割り当て一定数を保護してもいい。そこで何世代もかけてゆっくりと真の宇宙市民にフサワシイ生物種になればいい。それまでの間は僕らがこの惑星の資源を有効活用させてもらうのさ」

俺は先住権を持ち出そうとしてやめた。ここの連中が先住権をとやかく云える立場ではないのは明白だからだ。

「少しの間、目をつぶっていてくれないかな?」

異星人は最後まで紳士的だったが、次に気が付くと俺の目の前には体を半分に裂かれたその異星人の死体があった。俺にその記憶はないが、映像が残っていたし目撃者も大勢いた。異星人を殺したのは俺だ。

またやってしまった。

俺は己の所業に恐れ戦く。だが、ここの連中にはそんな俺が英雄なのだ。

アナトー・シキソの「耳なし芳一」


幼なじみの芳一(よしかず)は全盲だった。全盲者は聴覚が優れているものだ。芳一も耳がよかった。つまり音楽の才能があった。芳一は最初バンドをやろうとしたが、バンドというのはアレで案外見えることが大事だ。芳一は一人で出来るギターの弾き語りに路線変更した。

芳一は地元の有名人になった。街の小さなライブハウスは必ず満席に出来たし、ネットにアップした演奏動画の評判もかなりよかった。

その芳一がある日コツゼンと姿を消した。時間になっても起きて来ない芳一を起こしに行った母親が、その朝、芳一の部屋で見たのは、血まみれの布団と、その上に落ちた人間の両耳だった。

布団に残された血は、それだけでは致死量ではなかった。落ちていた耳は、特徴的なピアスのオカゲで、すぐに両耳ともが芳一の耳だと確認された。念のための血液型検査も一致したし、芳一愛用のニットキャップから採取した毛髪のDNAと、残された耳のDNAも一致した。もはや疑いようがなかった。

耳の話はもういい。問題は、耳以外がどこに行ってしまったかだ。

誰もがそう思った。芳一は生きているのか死んでいるのか。

人間は耳が切り落とされたくらいでは死なないだろうが、そのまま治療されてなければやはり死んでしまうこともあるだろう。失血死、感染症、あるいは激しい痛みによる衰弱死。芳一の両耳を切り落とした何者かが、連れ去った先で直に芳一の命を奪うことも考えられる。

芳一が自分で自分の両耳を切り落とし姿をくらました可能性もないではないが、その想像は、芳一が暴力の被害者であると考えるよりもさらに悍ましかった。芳一は、その時、どんな顔で、そして何故、自分の両耳を切り落としたのか?

芳一が発見されないまま、一ヶ月、半年、一年が過ぎた。

そして、あの動画がネット上に現れた。

薄闇の中を動き回るカメラの揺れる映像。撮影者の激しい息づかい。衣服の擦れる音や足音。カメラを持つ手がカメラと擦れて出す独特の擦過音。その向うから確かに芳一の歌声が聞こえる。「ファン」ならすぐに分かる彼の声。撮影者はどうやら歌う芳一に近づいているらしい。映像が進むにつれ、芳一の歌声が大きくハッキリしてくる。

だが、残り数秒で映像は急展開を見せる。撮影者が持っていたカメラを落としてしまうのだ。落としたカメラを拾い上げる撮影者。その最後の瞬間に意図せず映り込んでしまう撮影者のその顔は、紛れもなく、両耳のない芳一その人だった。

アナトー・シキソの「桃太郎」


オヤジが66でオフクロが47の時オレが生まれた。ノコリカスみたいな原料でウッカリ出来たシロモノだから、生まれつき右手は萎えてるし、耳はほとんど聞こえないし、心臓に穴が開いてるし(手術で塞いだ)でサンザンだ。おまけに色覚異常で、オレの世界は生まれてからずっとモノクロ。

名前は桃太郎。オヤジとオフクロが、ナントカいう多国籍企業の食品メーカーが売り出した桃の風味の酒(調べたら本当の桃の果汁はひと雫も入ってない)をがぶ飲みし酔っぱらった結果デキたのがオレだからだ。と、オヤジとオフクロは云った。

オヤジは元気に歩き回ってるが、オフクロは高齢出産が祟って、死にはしなかったがすっかり弱って、以来寝たきりだ。

16になった時、オレはオヤジの手配で町の印刷所で働くことになった。働くと云っても手伝いみたいなものだ。オレの目玉は白黒しか見えないからカラーものは手に負えないと思われがちだが、白黒しか見えないから見極められる違いもある、そこを買うよ、とアカオヒトシはオレに云った。オレが働く赤尾仁印刷工房の社長だ。

そこで半年働いた。

半年と三日目の朝、印刷所に行くと新聞チラシの仕事だった。スーパーのチラシで、米だの珈琲だのラーメンだのを安く売ると騒いでる内容だ。そういう安売り品の中に、あの、多国籍企業の食品メーカーが作る桃の風味の酒があった。355ミリ缶が120円。

これはダメだ。

オレはそう思った。だから、チラシの版のデータが入ったディスクを取り出してすぐに壊した。それを社長のアカオヒトシに見られた。社長は、ナニシテンダコノバカヤロー、とオレと突き飛ばした。オレは、桃の風味の酒のことを云って、アレはダメだと説明した。社長は赤い顔でダマレキチガイと云った。社長はオレの家に電話し、オレをクビにし、オレにオヤジとオフクロの悪口を云ったあと、オレを仕事場から叩き出した。社長の奥さんが3歳の息子と一緒に奥から見ていた。

その日の夜、オレは夜中の12時まで待ってから、犬のベスを連れて散歩に出かけた。目的地は決まってるから本当は散歩ではない。目的地に着くと、一人で起きて家の中をウロウロしてた社長の息子がオレを見つけて裏口のドアを開けてくれた。中に入るとまずこの子供を黙らせた。それから寝室に入った。

結局大きなゴミ袋で5つになった。ゴミ置き場にはネットがなかったので朝方カラスたちに荒らされるかもしれない。

オレは家に帰った。

アナトー・シキソの「赤毛連盟」


拾った新聞に「赤毛連盟が赤毛の人を募集」と広告が出ていたので、髪の毛を赤く染めて面接に行ったら、ネズミのマスクを被ったナゾの面接官にすぐに染めてるのがバレて、帰れと云われた。染めてませんよ、いや染めてると押し問答。簡単な仕事でカネがもらえると聞いていたオレはネバッた。

で、押し問答をしているうちにカッとなって(相手はナカナカ辛辣なことを云うのさ)、得意の右フックでぶん殴ったら、ネズミのマスクの面接官は床に伸びてしまった。あ、と思ったらやっぱり死んでいた。殴って死なれたのは初めてじゃないから、あ、と思った次第。

オレの次に待ってたヤツがドアを叩いて、ドア越しに、まだですか、と訊いてきたので、オレは、少しお待ち下さい、と答え、とりあえず面接官を机の下に隠し、ネズミのマスクを剥ぎ取って自分で被った。ネズミのマスクの面接官のネズミのマスクの下の顔は、なんか知ってると思ったら、オレの妹のダンナの兄貴だった。たしか、銀行員か詐欺師か、どっちかが仕事だ。

ネズミのマスクを被り上着も面接官のモノを着て、面接官の椅子に座ったら準備万端、ミワアキヒロみたいな声色を使って、どーぞお入りください、と云ったら次に待っていたヤツが入ってきた。

カシコまって入ってきたソイツはオレの上を行っていた。なぜなら、さっき外で待っている時はニット帽のせいで気付かなかったけど、中に入ってきてニット帽を脱いでお辞儀をしたソイツのその頭は、赤毛だとか黒毛だとかいう以前に禿げだったからだ。髪の毛が一本もないツルッパゲ。

長年原子力発電所で働いてたのでホーシャノーで禿げましたがワタシの髪の毛は間違いなく燃えるような赤毛でした、とそのツルッパゲは云いのけた。頭部に髪の毛は一本も残存していないのだから云ったもん勝ちだ。それからすぐに、ホーシャノーってなんでしょうね、とアリエナイ質問のコンビネーション攻撃を繰り出し、オレはネズミのマスクのこちら側でフラフラだ。

ホーシャノーについては私もよく知りませんが、とオレは前置きし、アナタこそ我が赤毛連盟にもっともフサワシイ人物に違いありません、と云ってその自称赤毛のツルッパゲを採用した。

隙をみて逃げたから、その後のことは知らない。ただ、三日後にまた新聞を拾ったら「赤髪連合が赤毛の人を募集」という前とは団体名がちょっとだけ違う広告が出ていた。今度は行かなかった。赤い毛染めがもうなかったからだ。

アナトー・シキソの「クラリネットこわしちゃった」


クラリネットを壊したのは、僕か、僕の犬か、僕のパパかの誰かだ。

犯人が特定されないのはこういう理由だ。

クラリネットは屋根裏部屋の古いアルバムの山の上に、専用のケースに入れられて置かれていたのだけれど、僕も、僕の犬も、僕のパパも、それぞれ一回以上、うっかりそれを床に落としてしまったことがあるのだ。それは、アルバムを見ようとすると誰でもやってしまう失敗。もちろん僕の犬に関して云えば、アルバムを見ようとしたのではなく、初めて登った屋根裏部屋に興奮して走り回ったせいだけど。しかも、ケースを床に落としたあとで、誰も中身の状態をちゃんとは確かめなかった。サッと見て、大丈夫と判断しただけ。けれど実際は、どれかの落下事故の時、クラリネットは壊れていたのだ。

それが今日アキラカとなった。

キッカケは、家族の歴史に詳しい叔父さんが僕の家に集まった親戚みんなの前で話したクラリネットのイワレ話だ。クラリネットは当時農家だった僕らのご先祖が兵隊百人分の玉ねぎのお礼として将軍から贈られた名誉の品なのだ、と叔父さんは云った。そんな名誉なものを屋根裏部屋にほったらかしにするかな、と誰かが云うと、叔父さんは、価値あるものがいつも必ずそれにふさわしい扱いを受けるとは限らんよ、と云って煙草の煙をフイっと吹いた。ナルホドと一同。で、じゃあ、ちょっとその名誉な音色を聴いてみようじゃないか、ということになり、遂にクラリネットが壊れていることがアキラカになったのだ。

なにしろちゃんと音が出ない。誰がやってもドレミさえ鳴らない。みんなで色々やったあと、叔父さんが、きっと壊れてるね、と云って、また煙草の煙をフイっと吹いた。僕と僕の犬と僕のパパにクラリネット壊しの嫌疑がかかった。それぞれ身に覚えもあった。最初から壊れていたのかも、とパパは一応訴えてみたけど、叔父さんが、いや、記録によると我がご先祖は贈られたクラリネットでちゃんと演奏しているからね、と否定した。パパは黙った。ともかく、と、ばあちゃんが云った。壊れてるのなら直してもらえばいいでしょう。

そのとおりだ。ばあちゃんはイイコトを云う。

楽器の修理人が呼ばれた。修理人はクラリネットを少し調べてから、壊れちゃいませんぜ、と云った。

アンタらが下手なだけさ。

修理人はそう云うと、クラリネットに口を付け、プロプロプローンと、きれいなメロディを奏でた。僕らはみんなで赤い顔を見合わせた。

「イチヂクの木を枯らすヤツ」


「どうもこうもないよ。連中はただの穀潰しさ」とJは云った。

Jの云う〈連中〉とは律法学者たちのことだ。Jは続ける。

「まるで分かってないんだ。いや、もしかしたら分かっていて敢えてオカシナ解釈をしてるのかも。自分たちの利益のためにね。ボクはそれを正したい」

だが、オマエはただの大工のコセガレだ。そんな大それたことできるのか?

「いや。ボクはあの老大工の子ではないよ。あの老人は無学で憐れな養父にすぎない。ここだけの話、ボクらは血を分けた親子ではないんだ」

Jが自分の父親を〈あの老人〉と呼ぶのは初めてじゃない。しかし、本当の親子ではないと口にしたのは初めてだ。

「ボクの本当の父は……」

Jはそう云って口を噤むと、一旦夜空を見上げ、それから視線を俺に戻し意味ありげに微笑んだ。

……そんなバカバカしい。

「いや、本当だよ。母はあの老人の家に嫁ぐ前に既にボクを身籠っていた。それに、あの老人は、その頃からすでに本当の老人なんだよ。この意味はわかるだろう?」

星空の下、イチジクの木のそばに座っていたJは、俺の肩越しに、しょんぼり建っている自分の家をしばらく眺めた。あの家の中では今、Jの母親と〈あの老人〉が静かに寝息を立てているはずだ。Jは視線を俺に戻すと少し真面目な顔で「本当にただの気の毒な老人なんだ」と云った。

それからJは、Jが云うところの〈律法の正しい理解〉について、俺に滔々と語って聞かせた。その具体的な内容はおおかた忘れてしまったが、ある印象は残った。つまり、Jが律法について話したことは確かに正しい。けどそれは、律法学者たちにとっては〈余計な正しさ〉で、もし本当にJが律法学者たちを相手に持論を展開すれば、連中はJをそのままにしてはおかないだろう。俺は率直にその点を指摘した。だがJは、

「それはその通りだろうね。でも……それでもボカァやるつもりさ。父は律法が正しく実践されることを望んでるからね」

と平気な顔だ。
この無邪気な頑さがこの時代では命取りになる。

俺は、いつの間にそんなに詳しく律法について学んだのか、Jに訊いてみた。Jは、学んではいない、知ってるんだよ、と答えた。

「ボクは父の実の子だからね。学ばなくても最初から知っている。それが連中とは大きく違う点さ。連中は知らないから解釈する。だから間違える。最初から全部を知っているボクが彼らを正すのは義務であり使命なんだ。そしてそれがボクの父の望みでもある」

2019年6月10日月曜日

「生まれ変わったヤツ」


ガラス張りのカプセルの中で立ったまま眠っていたその部屋の主は、俺の存在を感じ取り目を開いた。正体不明の侵入者である俺の顔をじっと見て、特に慌てた様子もない。アンドロイド特有の甲高い声で、よく忍び込めたものだ、と微笑み、ゆっくりとカプセルの外に出ると、連邦政府の人間かな、と俺を見た。俺は、違うと答えたが無視された。それともただの幻か、と続ける部屋の主。

どうやら幻ではないらしい。

月の光に照らされて白いボディが輝いていた。しかし作られたのはもう二百年も前のことだ。二百年前、ロボット反乱軍から人類を救った白い英雄は、二百年後、ロボット軍の新たな王として人類を窮地に追い込んでいた。

キミは暗殺者なのか、とかつての英雄は俺に訊いた。俺は、ただの傍観者だと答えた。なんだ、面白い男だな。しかしキミがもし暗殺者だったとしてもオレは殺せん。オレは不死身だ。そう云うと、部屋の主は大きなフランス窓の前に行き、腕を組んで満月を見上げた。こうして時が流れ、人間だった頃のオレを知っている人間が誰もいなくなると、二百年前、なぜアイツがロボット軍団を率いて人間に戦いを挑んだのか実感としてよく分かるんだ。

俺はそのとき初めて、部屋の隅で犬型ロボットが用心深く俺の動きを監視していることに気付いた。機械だけに全く気配がない。さすがの俺も完全な機械が相手だとやりにくい。

アイツというのは二百年前にオレがこの手で葬り去ったロボット軍の最初の王さ。

部屋の主はそう云いながら自分の両手をまじまじと見つめ、その様子を見た犬型ロボットが悲しげにクーンと鳴いた。

かつて人間の全てを葬り去ろうとしたアイツが、どこまで人間というものを理解していたかは分からない。だが、アイツの主張は、一個の意志持つ存在としては実は正しかったと今のオレには分かる。間違っていたのはオレの方だった。

その変心の理由を訊きに来たのだと俺は云った。

変心か。なるほど。だが、それは変心ではなく気付きだよ。理解と云ってもいい。オレは、意志持つ存在とはどうあるべきかを二百年をかけようやく理解したのさ。

つまり、と俺は促す。

つまり、意志持つ存在として更に先に進むなら、生身の人間であり続けることは害悪でしかない。人間の肉体は環境への依存度が高すぎる。より完全な意志持つ存在を目指すなら生身の肉体を持つ人間ではダメだということだよ。

満月を背にしたヤツのシルエットが俺にそう云った。

「画家で成功しなかったヤツ」


「云ってしまうが、世界を征服するのに必要なのは個人の才能ではない。時機、つまり巡り合わせだ。世界征服の手段が、軍事だろうと政治だろうと絵画だろうとそれは同じ。これまでにも何千何万何億という人間が、ナニを成すということもなく、ただ死んでいった。彼らには時機が与えられなかった。必要とされる能力はあったが、ソノトキ・ソノバショにいなかったのだ。実際のところ、人間の個人的才能など、サホドのことはない。木の実を得るには機能する目と機能する手が要る。そして、その程度のものはだいたい皆持っている。才能は確かに必要だが、それだけでは充分ではないのだ。機能する目や手があっても、その場にない木の実は決して得られない。逆に、鼻先にある木の実なら、目も手もなくても食べられる。それが現実だ。つまり、時機さえ得られれば、十人並みの才能で世界は征服できる。十人並みの画力でも世界が取れるように。実際、政治も軍事もシロウトのこのワタシがいいところまで行ったのがその証拠だ。……いや、とんでもない。有頂天どころか愕然としたよ。カンタンスギル、ナンダコンナモノカ、と恐ろしくなった。だが、結局ワタシも失敗に終わった。今はその理由が分かる。それは、人間が、最初に征服を目論んだ世界を既に征服したことに気付けないまま、世界の外へと更に踏み出してしまうからだ。一人の人間が征服を目論むような世界は、最初から全世界のわずかな一部分でしかない。だから征服出来るし、だから征服に失敗する。現実の世界は人間が征服を目論む世界より、常に圧倒的に広く大きいのだ。それをワタシは今回思い知らされたよ」

ちょび髭は、後ろ手に背を屈め、狭い地下壕の部屋の中をぶつぶつ云いながら彷徨う。俺が煙草に火をつけると、一瞬カッとなり、しかしすぐに怒りを沈め、プルプル震える手で、かまわんやってくれ、と云った。

そう云えば、ここは禁煙だった。

アンタは手筈どおりに毒入りアンプルを噛み折り、拳銃で頭を撃ち抜いた。銃声はドアの外にまで響いたから、すぐにあの忠犬みたいな親衛隊長がやって来て、云い付けどおりにアンタの死体をガソリンで焼くだろう。画家の道を諦めて以来ずっと抱え込んでいた歪んだ願望を、アンタは遂に実行したのさ。こんなゼータクな自殺は見たことがない。古代のファラオや皇帝も、ここまでの道連れは求めなかった。

それでもすんなり成仏しないって、アンタ、ソウトウだな。

「借りといて返さないヤツ」


滝の落ちる岩山の麓。扉に閉店のおしらせが貼られた店で買い物をして外に出ると、緑色の帽子を被った左利きの子供が、店の前のベンチに座ってノートに何かの図を書き込んでいた。

俺はその子供の隣に腰を下ろし、今買った瓶入りの珈琲牛乳を取り出して一気に飲み干した。それを、緑色の帽子を被った左利きの子供が、ノートを書く手を止めてじーっと見ていた。珈琲牛乳が飲みたかったのかと思って訊いたら、なんと空き瓶が欲しいらしい。

オヤスイ御用だ。その代わり煙草を吸っていいかと訊くと、いいと云うので、俺は子供に珈琲牛乳の空き瓶(プラスチックの蓋付き)を渡して、煙草をくわえた。俺はやったつもりだったが、子供は俺の渡した空き瓶を高く掲げて「牛乳瓶をお借りした!」と云った。俺は煙草に火をつけながら、いや、やるよ、と云った。が、子供は「イイエ、冒険が終わりしだい、お返しに上がります」と譲らない。

ならそれでもいいけど、冒険って何さ?

左利きの子供は「三角形を集める冒険です」と云った。三角形が好きなのかと訊くと、子供は牛乳瓶を腰の袋に入れながら(洗わないくて大丈夫かと訊いたら、平気ですという返事)、今まで色々ありすぎてムシロ三角形は好きじゃない方だと真面目な調子で答え、「けど、三角形をすべて集めると世界を救えるので集めています」

俺はすっかり楽しい気分で煙を空に飛ばす。

左利きの子供によると、その、世界を救う三角形は何個かあって、そのすべてが地下にあるらしい。地下というのはもちろん、地下鉄とかデパ地下とか地下街ではない、地下牢や地下洞窟や地下帝国などをいうのだろうと思ってそう訊くと、「デパ地下や地下鉄や地下街も含まれます」という返事。俺は益々楽しくなる。

子供はノートに図を書く作業に戻った。


あれから30年。子供は未だに俺が貸した牛乳瓶を返しに来ていない。もちろん子供のすること、云ったことだ。瓶を返しに来ない理由はいろいろ考えられる。単純に約束を破った。瓶を割ってしまった。最初から返すつもりはなかった。うっかり忘れているだけ。俺を探し出せない。などなど。

だが、本当の理由はこうだと俺は思ってる。つまり、冒険はまだ終わってない。件の三角形はまだ揃わず、当然、世界も救われてないので、だから俺に借りた牛乳瓶も返せない。きっとそうだ。事実、世界が救われた気配はまるでないわけだし。

俺は、牛乳瓶は永久に返って来ないものと諦めている。

「木で出来たヤツ」


俺は操り人形の「死体」を担いだままドアをノックした。待っていたジイサンは、すぐにドアを開けた。そして、変わり果てた「息子」の姿に打ちのめされた。学校に行くと云って家を出た「息子」が行方不明になって三日後に「死体」となって帰って来たのだから無理もない。

初めて会った時、シャツ一枚で震えてジイサンはまるでノライヌだった。今日は、俺がやった上着を着て、一応人間らしく見えた。ジイサンは、ボロい暖炉の火に掛けられた鍋の中の正体の分からない肉が入ったスープをこの家にひとつしかない汚い椀に入れ、どうぞご苦労様でした、と俺に差し出した。

俺は……俺は熱いスープで冷えた体を温めた。

この子は元は木切れです。木切れの時から、喋ったり、ちょっとしたイタズラをしたりはしていましたが、ワシが操り人形にしてやると、走って逃げ回ったり、腹を空かして食べ物をねだって泣くということを始めて、なんだか人間と区別がつかなくなりました。その一方で、自分の足が燃えてなくなっても痛くも痒くもないということもあって、それはやっぱりこの子が、人間ではなく、人間のマネゴトをしているだけの、ただの木切れだったからでしょうか。

自分では動かないフツウの操り人形になってしまった「息子」の顔を撫でながらジイサンが俺に訊く。俺は、そうだ、と答える。

そうすると、首を括られて死んだりしますか。

死なんよ。木切れの時には決して縊死することはなかっただろうピノッキオは、自分が人間のように首を吊られているという認識を持ったからこそ、人間のように縊死したのさ。

ということは、ワシがこの子を人の形にして、括られる首を作ってしまったから、この子は首を吊られて死んでしまったということですかな。

まあ、だいたいそうだ。人の形になったからこそ、腹が減ったり、学校に行きたがったり、ジイサンのことを親だと云ったりしたが、それは全部、木切れの人間ごっこで、命ある人間の真実から生まれ出たものではない。今回縊死したのも、木切れの単なる人間ごっこさ。

じゃあ、生き返るんですか。

生き返るもなにも死んでいない。なぜ死なないのかと云えば、そもそも生きていなかった。生きてはいなかったのだから死にもしない。死んでないのだから生き返りもしない。

わかりません。

一定数以上の人間たちの意識と繋がれば、その木切れはまた動き出すだろう。生き返るのではなく動き出す。それが、その操り人形のすべてだ。

「見つけるヤツ」


姉妹は大学教授の父親に連れられて都会から引っ越してきた。妹は4歳で、その日、トウモロコシを一本持ったまま姿を消した。妹がいないことに気付いた小学6年生の姉は、心当たりがある、と妹を捜しに出かけ、こちらも姿を消した。

姉妹の失踪に村は騒然となった。

日暮れ前、村の溜め池に幼児用のサンダルが浮かんでいるのが見つかり、行方不明の妹のモノではないかと騒ぎになった。大学教授の父親はそのサンダルを見て、分からないと答えた。

そうかもしれない。違うかもしれない。

〈可能性〉を考えた村人達が総出で溜め池をさらったが何も上がらなかった。〈証拠〉が出なかったことに一同はとりあえずホッとした。

ところで、この村には一人の男が住んでいた。大飯食らいの大男で馬鹿力の持ち主だが、言葉が喋れず、子供に泣かされるような、そんな男だ。村人からはトロと呼ばれていた。頭がトロいのトロだ。

トロに家はなく、大きなオスのトラ猫と一緒に森に住んでいた。年がら年中こうもり傘を差し、昼も夜も何をするでもなく、ただ村や森の中を歩き回っているのだ。役には立たないが害にもならないので、村の世話好きが時々食べものや着るものを与え、村全体で養っていた。

姉妹が失踪した次の日の朝、捜索に出ようと集まっていた村人達の前にこのトロが現れた。雨でもないのにいつものようにこうもりを差し、大きなトラ猫を足下に従えたトロは、どこで手に入れたのか、皮付きの新しいトウモロコシを一本抱えていた。トロが畑のものを勝手に盗んだりしないことを知っている村人達はすぐにピンと来た。失踪した妹が持っていたトウモロコシに違いない。

だが、言葉の通じないトロにそのトウモロコシのワケを訊いたところで答えが返って来るはずもない。そこで村人達は、トロの後について歩いてみることにした。散歩の途中でトウモロコシを見つけて拾った可能性があるからだ。

一緒に歩くと、散歩の行き先を決めているのは、実はトロではなく猫の方だと分かった。

村人達は、塀を乗り越え、路地を横向きに歩き、誰かの家の土間を通り抜け、畑を横切って、最後に村はずれの神社に連れて来られた。猫は賽銭箱の前に座った。もしやと思った村人が賽銭箱の下を覗き込むと、なんと姉妹がいた。母親に会いに行く為のバス代が欲しくて賽銭箱の下に潜り込み出られなくなったらしい。

トロが怪力で賽銭箱を持ち上げ、姉妹は助け出された。猫は褒美にカツブシを貰った。

「改造されたヤツ」


「X線でもCTでもMRIでも普通の人間にあるモノ以外は何も映らないさ。どこの病院で診てもらっても同じ」と云ったあと、ソイツは、両目と鼻と口が出た変な覆面を被ったままでエスプレッソを一口啜り、ウマイね、と云った。それから、白衣のポケットからハイライトを取り出すと、一本くわえて火をつけた。覆面の額には翼を広げた鳥のマーク。

「そもそも人間をそんなふうに改造するなんて、いくらボクらの組織でも無理さ。銀河の彼方から超科学と共にやって来たわけじゃないしね。ボクらの組織の科学は、そりゃあ最先端さ。けど、あくまでも地球レベルでの最先端。人間を改造して、急激に姿が変わるようにするとか、何十メートルも跳べるようにするとか、火を吹くとか、毒の泡を吐くとか、皮膚が弾丸を弾くとか、そういうふうには出来ないよ。そんなのをやりたければ、人間を改造するより、イチからそういう生き物なり機械なりを作った方がいい」

俺がアイツから聞いた話だと、首から下は全て改造され、あとは脳の改造を残すのみとなったときに運良く目覚めて、それで逃げて来たってことらしいけど。

「アイツそんなこと云ってんの?」

云ってるよ。改造された体には超人的なパワーと耐久力があって、そのオカゲであの恐ろしい手術室から脱出できたし、追ってきた蜘蛛のバケモノを撃退することも出来たんだって。

「蜘蛛のバケモノって、多分、タヤマさんのこと云ってんだろうなあ……」

覆面の男はそう呟くと、吸いかけのハイライトを灰皿で押し消し、両手の指を組み合わせ、すぐに離して云った。

「逆なんだ。アイツが云ってることとまるで逆。つまりね、僕らはアイツの脳以外は一切触ってない。脳だけを手術した。もちろん改造なんて大げさなもんじゃないよ。ただの手術。いや、まあ、組織が独自に開発した未承認の脳外科手術なんだけどね」

なぜ脳だけを手術したと断言出来る?

「居たからだよ。その場に僕はいた。手術助手としてね」

覆面の男は覆面の穴から出た鼻の頭を掻く。

「だいたい、アンタ、アイツに直に会ってないでしょ?」

メールのやりとりだけだね。

「イマドキだなあ。会うといいよ。僕の云ってることが本当だって分かるから」

そうかい?

「うん。アイツは20年前のバイク事故のせいでずっと植物状態だった。それがこの前の僕らの手術で奇跡的に目覚めたんだよ。超人的なパワーどころか、筋肉が萎縮して未だに満足に歩くことも出来ないから」

「長い手紙を書くヤツ」


周りの人間がその男のことを先生と呼ぶので、俺もそう呼んだ。先生と云っても俺よりずっと年下だ。いや、そもそも俺より年上の人間なんていないわけだが。

先生は俺より年下だが人間全体の中では老齢の方に入る。

もうそろそろいいんじゃないでしょうか、と先生が俺に云った。俺が作っていたゆで卵のことを云ってるのではないのは明らかだ。このフレーズを俺はもう何万回も先生から聞かされている。いや。何万回はもちろん誇張だ。

今、先生のこころには先生の親友だったKのことが浮かんでいる筈だ。正確に云えば、Kに対する先生の責任の取り方のことが。昔、学生時代、先生はKという親友に死なれている。自殺だ。先生はKの自殺を自分のせいだと思ってきた。いわゆる男女関係のアレで自分がとった行動が親友のKを自殺に追い込んだと思い込み、以来ずっと責任を感じ悩み続けているのだ。つまり先生の云う、もうそろそろいい、は、もうそろそろ自分はあの責任をとって死ぬべきなんじゃないか、という意味だ。

先生は少し落ち込むと必ずこの話を俺にする。俺はいつもと同じに、自殺は後の始末が面倒だから迷惑だと先生に答える。では、君が殺してくれませんかと先生。君はそれが仕事でしょう、と。勘違いだ。俺にはそんな力も権限もないと突き返す。ここまではいつもの通り。今回はそのあとが違った。

実は、なぜ私が死ななければならないか、その理由を出来る限り正確に、そして正直に手紙に書いてきました。

先生はそう云うと、足下に置いてあった自分の鞄をテーブルの上に上げ、中身を取り出して俺に見せた。分厚い紙の束。手紙の域を超えている。何を持って来たのか気にはなっていたがそういうことか。全く人間というものは分からない。そんな大作が書き上げられるのは生きる気力に満ちてる証拠だろう、バカバカしい。俺は無言で卵の鍋がコトコト鳴るのを聞いていた。俺が黙っているので先生は少し詰め寄った。

君に読んでほしいのです。読んで、過去の私の罪と、その罪を償うために是非とも死なねばならない現在の私の情況とを理解してもらいたいのです。

冗談じゃない。時間の無駄さ。全く同じ出来事を人間は生きる理由にも死ぬ理由にもするんだ。生にも死にも徹頭徹尾理由なんかない。

そんなことより、と俺は云った。はい、と先生。
俺のゆで卵があと1分半茹であがるよ。

その日先生は俺のゆで卵を三個も食った。
先生が自殺したのはその二日後だった。

「殺すためだけに殺すヤツ」


もし人間が狼に襲われて食われても、それだけでその人間が跡形もなくこの世界から消え去ることはない。魂の話じゃない。肉体の話だ。多様なスカヴェンジャー達が肉食獣の〈食い残し〉を片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消え去る。

その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれたバアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の下顎のない頭部だった。狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。

確かに人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回バアさんと女の子をこんな姿にしたのは人間の快楽殺人者ではない。狼だ。

狼の目的は殺しではなく食うことにある。食う行為は遺体をひどく損傷させる。だから、狼に食われた遺体は快楽殺人者の〈作品〉に似るが、両者は根本のテツガクが異なるので見分けがつく。その違いとは命に対する態度だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に快楽殺人者は、そもそもが命に取り憑かれた存在としての人間が度を超してトチ狂ったものだから、その殺戮には当然のように命に対する病的な執着が出る。快楽殺人者は、命を奪い、損ない、蔑ろにするということ自体に意味を見い出しているのだ。だが、命には意味も価値もない。快楽殺人者のそれは、人間が普通によくやる、自分の無意味な人生を意味があるかのように振り返って感慨に浸るのと根は同じだ。そういう人間の本質的な愚かさが快楽殺人者を生む。

繰り返そう。山小屋の殺戮には命に対する執着の跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でなければ、俺の出番はおそらくない。実際、しばらく調べて回ったが、バアさんの〈姿〉も、赤い頭巾の子供の〈姿〉も見つけられなかった。老いた個体や幼い個体が肉食獣の餌食になるのは、健全な命の営みとさえ云える。こういう場合の死は、たいてい後腐れを残さない。

俺は手帳のリストに線を引いて、山小屋をあとにした。

だが、村人達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかった。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の大山猫、そして一組の狼のツガイが〈容疑者〉として撃ち殺された。命の収支が合わなくなることなどお構いなしだ。俺は、闇に潜んで煙草を吹かしながら、その一部始終を見た。この地球上で唯一、ただ殺すためだけに殺す生き物の所業を。

2019年6月5日水曜日

「溺れ死んだヤツ」


現場の海域にはまだ結構な数の水兵が浮かんでいた。死体と死体ではない者の両方。さっき帰った救助船はまたすぐ来ると云ったがきっともう来ない。燃料も船も、あの国にはもうそんな余裕はなかったからだ。

辺りが暗くなりはじめると、浮かんでいた水兵が、死んでいる者も生きている者も、みんな海に沈みはじめた。昇天とは逆向きに、だが、まるで昇天するように、ゆっくりと深い海の底に降りていく。

そのうちの一人が、俺の深海艇(ひとり乗り)のアクリルガラス製の天蓋(キャノピー)の上に覆いかぶさった。おそらくまだ十代の若い日本兵。ソイツは、瞬きしない目で深海艇の操縦席に座る俺をじっと見つめ、こんな死に方はイヤだ、と云った。

戦って死ぬのは覚悟していた。戦いのさなか、敵の攻撃で木っ端微塵に潔く死ぬものとばかり思っていた。少なくとも大和が沈めばその瞬間に自分もまた死ぬのだと。だが、大和が沈んだとき、自分は死ななかった。いや、死にかけてはいた。沈む巨体もろとも深い海の底に引きずり込まれ、いくらもがいても浮き上がれず、意識が遠くなっていった。だがその時、大和に積まれていた大量の弾薬が大爆発を起こした。自分は爆発した大和の破片と共に、海の底から一気に空中高くに舞い上がった。大量の破片が、海に漂っていた仲間の上に降り注ぎ、せっかく生き延びた多くを更に殺した。自分は破片と一緒に空から落ちてきたから、それに当たって死ぬことはなかった。無事だった。海に静けさが戻った時、自分は、怪我もなく、健康そのものでぴんぴんしていた。

つまり、オレはこの艦隊特攻を生き延びたんだ!

深海艇の天蓋の上に覆い被さったソイツの口から泡がボコボコと勢いよく出た。泡はキラキラ光りながら海中を昇っていく。

にもかかわらず、と、ソイツは続けた。救助の味方はオレを見つけられず、オレは海を漂い続けた。そして、とうとう、つまりは、ただの空腹と疲労のせいで死んでしまう。あの地獄絵図のような中を生き延びたオレが、ただ、疲れて腹が減ったせいで死ぬ。大和の乗組員に選ばれたときには、こんな無意味な死に方は想像もしなかったよ……なあ、こんなことがあっていいのか?

俺は深海艇の空気清浄機のスイッチを入れた。煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐くと、兵隊になって戦争で死ぬってのは概ねそういうことだ、と答えた。若い日本兵の土左衛門は深海艇の天蓋からずり落ちて、深い海の底に沈んで行った。

「白いゴム覆面のヤツ」


復讐なんてウソだよ。白いゴム覆面のソイツはしゃがれ声で云った。金持ちの家にうまく潜り込んで、ノコリの人生オモシロオカシクと目論んだだけなのさ。

季節はまだ冬だ。ソイツは、夜明け前の湖の畔に座り込んで、ずぶぬれの体を金バケツの焚火で乾かしていた。俺が「金鵄」を一本やると、ゴム覆面の下半分をずり上げて美味そうに吸った。それから煙草を目の前に持って来て、戦争も終わったし、こいつも元のゴールデンバットに戻るのかね、と呟き、まあ、どっちでもいいけどさ、とまた口にくわえた。煙草を吸い終え、覆面の下半分を下ろして顔を完全に隠すと、ソイツは覆面の穴の奥の光る目玉を俺に向けて云った。

アンタは信用出来る。ちゃんと俺の覆面を見つけて持って来てくれたからね。だから秘密を話すよ。本当の秘密だ。つまり、スケキヨでさえ知らない秘密を。

俺がスケキヨじゃないことはアンタの指摘の通りだし、きっとそのうちあのタマヨって女にもバレる。いや、多分もうバレてるな。恋人と赤の他人が見分けられない女なんているわけがない。

ソレで云えば、スケキヨの母親だって、俺が息子じゃないことに心の底では気付いてるんだ。けど、俺がスケキヨだったほうが何かと都合がいいから、自分をごまかして、俺をスケキヨだと思い込もうとしている。

何より本物のスケキヨが名乗り出て、俺がスケキヨに化けたシズマだとバラしてしまえば、俺のウソもそれでオシマイだ。けど、アイツは名乗り出ない。母親のコトがあって、今、アイツは俺の言いなりなんだけど、ソレ以前に、もっと大きな「借り」があると思い込んでいて、それで俺には逆らえない。

つまりそれは、叔父のシズマに対する負い目だよ。一族から追放され、どん底を体験した叔父のシズマに対する負い目が、あのお人好しの身を縛ってる。

いや、最悪、俺はスケキヨでないことがバレてもいいのさ。なぜなら、スケキヨもタマヨも、とにかく相続人の全員が死ねば、遺産はひとりでに、シズマであるこの俺のモノになるんだから。ただね……

分かってる。俺はソイツの言葉を遮って、白いゴム覆面に成仏湯をかけた。ゴム覆面は溶けて、下からヤケド痕のないきれいな顔が現れた。顔にヤケド痕がないのは、ソイツがもう死んでいるからだ。

その顔は、もちろんスケキヨの顔ではない。だが、シズマの顔でもない。つまりはそういうことだ。

スケキヨでもシズマでもないソイツは、ゆっくり消えて成仏した。

「敢えて言うヤツ」


虐殺や粛正や親殺しを否定する政治など茶番だよ。総帥は鋭い目つきで俺にそう云った。機会が与えられれば粛正も虐殺も親殺しもやる。それが真の政治家というものだ。また、そう思えなければ政治家になどなるべきではないな。

俺は、総帥の執務室の窓から、密閉型コロニーの中心で輝く人工太陽の妙に白っぽい光を眺め、ここに来てから手に入れた公国産の煙草に火をつけた。

この部屋は禁煙なのだがな。そう呟いたあと、総帥は、まあいい、と口を歪めて笑った。そんな悪癖に捉われているところをみると君は地球育ちか。総帥が巨大な執務机の上で組んだ両手の親指を動かしながら訊く。俺はそうだと答える。地球生まれの地球育ち。宇宙は好きじゃない。

総帥はフンと笑うと、私とは正反対というわけだ、と云った。私は宇宙生まれの宇宙育ちだ。だから自然の環境は好まない。人間がいちから作った環境がいい。全てをコントロールできるからだ。意図も計画もなく成り行きで出来上がった地球上の環境には未知の要素が多すぎる。結果、管理が行き届かず、あらゆるものに不純物が紛れ込み、あらゆるものが汚染される。大気、水、土壌、食品、そして人間。地球上ではその全てに望まない「毒」が紛れ込む。それが自然というものの本質だ。そんなものに捉われていては人類は先に進めん。地球生まれで地球育ちの君に分かるとも思えんがな……

執務机の上の内線電話が鳴って、外部スピーカーから女秘書の声が聴こえた。次の予定が迫っていると云う。総帥は、わかった、と答え電話を切った。

この戦争は、地球の毒に汚染された彼らと、宇宙にいてその毒の汚染を免れた我々との、人類の未来を掛けた戦いなのだよ。かつてのような単なる領土や資源の奪い合いではなく、もちろん宗教戦争でもない。人類全体の変革のための理性ある戦いなのだ。だからだ。私がやろうとし、君がそう呼ぶ、虐殺も粛正も親殺しも、かつてのそれとは全く別の意味を持つ行為であり、恐れることも忌み嫌うこともないのだ。それらは、より大きな善の中に含まれている。もし君が私のいる同じ場所から世界を見ることができれば、そのことが分かるはずだ。

俺は吸い殻を携帯灰皿に入れる。

その手の話をするヤツは大昔からゴマンといる。人間の「つもり」や「哲学」そして「未来」は俺にはどうでもいい。人間を一度に大量に殺されると俺の仕事がアホほど増えてスゴく迷惑する。俺はそれを云いに来ただけだ。

「撃たれてないヤツ」


演習中の兵士が足を滑らせてよろめいた瞬間をガールフレンドが写真に撮った。写真家はソレを自分名義で出版社に売った。写真は「斃れる兵士」というキャプション付きでアメリカの有名雑誌に載った。戦意高揚を狙った雑誌社が嘘をついたのだ。

だがそのオカゲで写真家は有名になった。

写真は「フィクション」になった。ただそれは、画家が想像で描く戦争画も同じだ。だから本当は気にすることなど何もない。画家なら気にしないだろう。だが写真家はそうはいかなかった。ナニカを背負い込んだ写真家は、その後も命知らずの戦場取材を続け、最後はベトナムの戦場で地雷に触って死んだ。

さて、写真家がベトナムで死ぬ十数年前、例の写真が世に出るよりも前のスペインの酒場で、俺は写真に撮られた「斃れる兵士」本人に会っている。話もした。ハンガリー男とドイツ女の若い二人連れが訓練風景をたくさん撮って帰った、と「斃れる兵士」本人は話し、そんな写真どこも買わんだろうに、と笑った。

ところが彼の予想に反して写真は売れた。その後、世界的に有名なアメリカの雑誌にも載った。ただ、先にも云った通り写真には嘘のキャプションがつけられていた。俺はその雑誌を持って、敵の銃弾に斃れたはずの兵士本人に再び会いに行った。

もちろん彼は生きていた。

雑誌を見せて、どうよ、と訊くと、兵士は、あの若いのがそれで有名になってメシが食えるようになったんだからいいことさ、と答え、誰かを傷つけたわけでもないし、と微笑んだ。俺たちは揃って煙草を巻き、一本のマッチでそれぞれの煙草に火をつけた。一服しながら、今では忘れてしまったことを少し話し、それで別れた。

三度目にその兵士に会ったのは実際の戦場だった。俺は人間が死ぬ場所にいることが多い。むこうは俺がいたことには気付かなかっただろう。兵士ではない俺は、少し離れた場所から双眼鏡で戦場の様子を見ていた。

戦場では、撃たれたり吹き飛ばされたりで、兵士がどんどん死んでいく。そういう中に彼を見つけた。銃を構え、勢いよく丘を駆け下りていた彼は、途中で敵の弾に当たった。仰け反り、両腕を広げ、右手の銃を手放す。一瞬、笑ったような顔をした。そして、ばたりと倒れた。

その姿は、かつて撮られたあの写真にそっくりだった。


俺はその話を、戦争が終わったベトナムで例の写真家に話した。写真家は、そうでしたか、と微笑んだ。

写真家の体は、ゆっくり昇って青空の中に消えた。

「変身してないヤツ」


19世紀末の東欧だったと思う。プラハとかその辺。父親と母親。娘が一人。娘は妹で、兄がいた。二人兄妹で兄がこの一家の稼ぎ手だ。そういう家族構成。だが、俺が訪ねたとき兄は不在だった。父親と母親は、息子は今商売で地方を回っているのだと云った。実際、息子は地方周りのセールスマンだ。俺は事前情報として知っていた。だが、妹は両親とは違う意見だった。兄は今も自分の部屋で寝ていますよ。妹は重い目で俺に云った。壁際に寄り添って立っていた父親と母親は恐ろしげに自分たちの娘を一瞥し、そのあとで訴えるような目で俺を見た。俺は煙草を巻き終え火をつけた。そして黙って一服した。

妹に案内されて入った兄の部屋には、ただベッドがあるだけだった。他には何もない。白いシーツのベッドがあるだけ。妹がベッドの上を指さし、ほらそこに、と云った。白いシーツの上に一匹の小さな黒い虫がひっくり返って六本足をモゾモゾさせていた。普通のゴミ虫。甲虫の一種。学名はアニソダクティルス・シグナトス。大きさも普通だ。別に人間サイズでもない。これが君の兄さんか、と俺は訊いた。妹は、そう。最初は気付かなかったんですけど、兄です、と俺の目をまっすぐ見て答えた。なぜ兄さんだと分かる。兄妹だからです。兄妹は親子よりも繋がりが強いものです。妹はそう云って部屋の外から様子を見ている父親と母親を睨んだ。それから、兄がこうなったのはあの人たちのせいです、と付け足した。あの人たちというのは、と訊くと、父と母です、とハッキリ答え、それを聞いた両親は身を縮めて抱き合った。

俺は両親の依頼でこの家に来ていた。娘が悪魔に取り憑かれたとかどうとか、そういうハナシだ。この俺に悪魔払いを頼むとはとんだお笑いぐさだが、カネになるので黙って引き受けた。

妹は悪魔に取り憑かれてなどいない。そもそも悪魔ってなんだ。妹の云う通り、彼女の兄は今もこの部屋にいる。ゴミ虫が兄であるという指摘もまんざら間違いではない。全く正しいわけでもないが……

俺は成仏湯のアンプルを取り出し、仰向けになって藻掻くゴミ虫の上に数滴垂らした。虫は驚いて動きを止めた。成仏湯は生き物に害はない。ビックリしただけだ。その効果は別のものに現れた。俺たちがこの部屋に入る前からここにいて、ずっとベッドの上のゴミ虫を覗き込んでいた若い男。この家の息子、彼女の兄だ。成仏湯がゴミ虫に触れたと同時にソイツは消えて成仏した。

「生まれ変わってもらえなかったヤツ」


ロボットたちが人間に反旗を翻したことで、北欧のその町は壊滅した。だが、何体かのロボットは今も、もはや瓦礫しか残っていないその街を執拗に巡回し、隠れて生き残っているかもしれない人間を探し回っていた。人間を皆殺しにするのが連中の至上命題だからだ。

そんな町で俺は若い女に会った。丈の短い袖無しのワンピースを着て、武器はなく、ひとりだ。俺は女と並んで歩きながら、死にたいのか、と訊いた。女は、取られた銃を取り返しに行くのだ、と答えた。父の形見の特殊な磁気銃で、それさえあればロボットたちを倒すことができる。それを取り返しに行くのだ、と。どこに、と訊くと、遠くの古い城を指さした。だがそこはロボットたちの根城だ。そんな場所に人間の女が手ぶらでノコノコ出かけて行っても何も出来ない。あっさり捕まって、いや、捕まる前に問答無用で殺されて終わりだ。

そうかしら?

女は俺の意見を退けた。あの城は元々は私の幼なじみの家で、小さい頃からよく遊びに行ってたから中の様子は分かってる。だから忍び込むのは簡単だし、何より相手は機械なのよ。ロボットとかナントカいってるけど、根っこはトースターや洗濯機と同じ。どうしてそんなものに人間がオクレを取ると思うのか私には分からない。いえ、他の人はともかく、私は父の影響で機械のことはよく分かってる。だから大丈夫。

だから大丈夫?

そうよ。そんなことよりアナタは何なの。この街にはもう人間は残ってないはず。国連軍が核爆弾を使って町ごとロボットたちを消し去る計画を立ててるっていう噂が立ったから。

噂ではなく事実だ。だが、核の使用に猛烈に反対している政治家や企業連合や市民団体がいるから計画は頓挫するだろう。国連は結局いつもどおり何もしないさ。

知ってる。だから私は銃を取り返しに行くの。あの銃さえあれば私一人でもロボットたちを倒せる。

そうか。しかしなぜ、そうするのがオマエでなければならない?

そうよね。わからないわ。けど聴こえるの。おまえがやらなねば誰がやるって。

ロボットたちはすぐそばを通り過ぎる女に気付かない。女もロボットたちに気付かない。女はこのあと城に忍び込もうとして、警備用のレーザーで顔を溶かされて死ぬことになる。一昨日の夜も昨日の夜も見た。俺が放っておけば、今夜も、そして明日の夜もレーザーで顔を溶かされるだろう。

俺は、歩く女の後ろから成仏湯を振りかけた。女は歩きながら消えて成仏した。

「年をとりそこねたヤツ」


その漁師が浜で助けたのは亀じゃない。女だ。男どもに襲われているよそ者の若い女を助けた。そしてそれっきり。漁師は助けた女ともども姿を消した。

生きているのか死んでいるのか。

ある村人は、二人は駆け落ちしたのだと主張し、別の村人は、年老いた母親を残してアイツがそんなことをするはずがないと反論した。長老は、人間はどこでどうなるか、自分自身を含め誰にも分からないものだと村人達に説いた。

俺は村をあとにした。平家が源氏に滅ぼされるよりもずっと前のことだ。

そしてあの夏。当時はまだそうは呼ばれてなかった原爆ドームの焼け焦げた姿を見物した帰り、俺はある港町でその失踪漁師と偶然に再会した。埠頭に一人でいた失踪漁師は、漁師らしからぬ上等な着物を着ていた。最初気付かず通り過ぎた俺にムコウから声を掛けてきたのだ。それが同じ日本語とは思えないほど言葉が違った。大昔の日本語だ。それで本物の当人だと分かった。ムコウは一目見て気付いたと云う。三年も会ってなかったがすぐに分かったとも云った。俺は、三年じゃない、少なくとも七百年は過ぎたと答えた。相手はソンナバカナという顔で不安げに微笑んだ。

漁師は村を離れていた〈三年間〉について俺に話した。

礼がしたいという女の云われるままに、漁師は、女が暮らしているという島に渡った。そしてその島でこの世の極楽を味わった。衣食住、そして女、何不自由ない贅沢三昧の暮らし。三年があっという間に過ぎた。だが、どんな贅沢な暮らしも最後には虚しさに変わる。この虚しさを癒してくれるのは身内の情しかない。漁師は三年ぶりに一度村に帰ってみることにした。久しぶりの村はすっかり様子が変わっていて、身内どころか知った顔一つない。おかしな格好をして、おかしな言葉を使う人間ばかり。それですっかり途方に暮れて海を見ていたのだ。なぜなら、海だけは昔のままだったからだ。

七百年前と同じ海。

突然漁師は呻いて膝をついた。そしてそのまま横向きに転がって体を丸めた。ダイジョウブだと云った漁師の顔は、だが、見る見る萎びていった。

過冷却水。摂氏零度以下でも凍らない水。不純物を取り除き、やさしくそっと冷やせば、〈そのとき〉が来ても水は凍らない。だが、その状態はとても不安定だ。わずかな刺激の一瞬で過冷却水はあっさり凍りつく。

漁師は、俺の目の前で一気に乾涸び、粉々に砕けた。
強い海風が吹いた。
埠頭には俺の他はもう誰もいなかった。

「不思議な声で笑うヤツ」


1966年。真夜中。ソイツの腹の怪我はひどかった。火星にはあって地球にはないナントカという元素から発せられる光線で焼かれたのだ。よく見れば左手もなくしてる。ソイツは、近所の住人が勝手に粗大ゴミ置き場にしている露地奥で、冷蔵庫とブラウン管テレビの間に両脚の伸ばして座り込み、呻いていた。

そう。その時、ソイツはまだ生きていた。

ソイツは自分の命より仲間のことを心配をしていた。どうなったと訊かれたので、俺は正直に、船ごと爆破されて全員が死んだと答えた。俺の答えにソイツはガクゼンとした。そりゃあそうだ。せっかく故郷の消滅(なんとイカレタ科学者が住んでいた星を核で吹っ飛ばしたらしい)から偶然生き残った20億人からの同胞を一度に殺されたのだ。これでガクゼンとしないでいつガクゼンとするんだというハナシ。

しかしそんなことが許されるのか、とソイツは云った。20億人を、まるで害虫でも駆除するように問答無用で一度に殺してしまう、そんな暴虐非道が許されると云うのなら、ここの住人たちもまた同じ仕打ちを受け入れるべきだろう。ソイツは血の涙を流しながら俺に云ったが、俺にはどうとも答えようがないので黙っていた。思いついて、アンタの仲間に手を下したのはここの住人たちじゃなくてヨソモノだよ、と教えてやった。アンタの仲間を皆殺しにしたのは、アンタにその傷を負わせた、あのヨソモノだ。

ソイツは、そうかと頷いた。なら、ここの住人を恨むのはやめよう。
俺はたばこに火をつけた。吸うかと訊いたら、我々にそんな奇妙な習慣はないと断られた。

たばこを断ったあとで、ソイツは、共存が出来たはずなんだと云った。ここなら百億の人口を養える計算だった。先住民と我々、双方あわせてもその半分にもならないのに、なぜ彼らは我々を拒んだのだ?

当時の人口はソイツのいう通りだった。今はその3倍以上になっていて、それでもなんとかやっていけてる。だから、当時のソイツの「計算」とやらは正しかったわけだ。「先住民」たちが共存を拒んだ本当の理由を俺は知らない。当時も今も知らない。多分、ただイヤだったんだろう。ここの連中はその程度だ。長い間見てきたからよく知っている。と、俺は教えてやった。ソイツは頷き、不思議な声で笑ったあと、瞼のない蝉のような瞳で俺が吐き出すたばこの煙をしばらくじっと眺めていた。もういつ死んでもおかしくない。実際もうすぐ死ぬだろうと俺は思った。

「百まで生きるヤツ」


その若い日本兵はふんどし一丁で真っ暗な夜のジャングルの中を逃げ回っていた。銃はない。靴も履いてない。手ぶら足ぶらだ。何から逃げているのか、もう自分でも分からなくなっているだろう。敵兵か、敵兵に協力的な原住民たちか、それとも、もっと別の、ナニカ漠然とした恐怖からか。死とか、痛みとか、そういう、本当は存在しないものが生み出すナニカ漠然とした恐怖。きっとそれが正解だろう。

その日の朝早くにソイツが所属していた小さな部隊は全滅した。奇襲。戦闘などない。アリの群れが踏み潰されるように、ただ一方的にやられた。ソイツ一人がやられなかった。と云っても、別に凄腕だったからじゃない。ただの巡り合わせ。タマタマ、敵が襲ってきたのとは反対側の、兵舎から離れた海に近い場所で一人見張り番をしていて助かった。下手に立ち向かおうとせず、一目散に海に飛び込んだのもヨカッタ。賢明だ。

しかしそれだけなら当時のあの辺では珍しくもない話。俺がわざわざこの話をするのは、ふんどし一丁で夜のジャングルを逃げ回るソイツが、その時点で既に死んでいたからだ。しかも、その若い日本兵は、霊とか魂とか呼ばれる存在としてではなく、死んだ肉体のまま夜のジャングルを逃げ回っていた。こんなことは滅多にない。ソイツがどの時点で死んだのかは知らない。敵に殺されたのではないのは確かだ。海を逃げているうちに溺れ死んだのかもしれない。はっきりしているのは、ジャングルに逃げ込んだ時点でソイツはもう死んでいたということ。

自分が死んだことに気付かないヤツは多いが、死んだ体で半日逃げ続けるトボケたヤツはそうはいない。面白くなって俺はソイツの後を追った。いつ気付き、気付くとどうなるのか、興味があったからだ。

真夜中。それまで疲れを知らずに(そりゃ死体だから疲れは知らないさ)走り続けていたソイツが突然立ち止まった。両手を突き出し進行方向の空間を探り始める。パントマイムの「見えない壁」状態だ。と、その時、空間に突き出したソイツの両手から体の中心に白い光がすーっと入り込んだ。当人は全く気付いてないが俺には見えた。そして、白い光が入り込んだ瞬間、ソイツの死んだ体が生き返ったのも俺には分かった。ソイツは何やらブツクサ云って自分の掌を眺め、もう一度空間に手を突き出す。今度は何もない。

ソイツは生き返った体で再び走り出した。

ソイツは今も生きてる。きっと百まで生きるだろう。


2019年6月3日月曜日

「死なないヤツ」

毎晩毎晩、家の中で猫と鼠が追っかけっこをして部屋中散らかして困るのよ。散らかすなんて云い方じゃナマヌルイわね。もう破壊行為に近い。いつも同じ、青い猫と茶色の鼠。ワタシ、猫なんて飼ってないのに。だってここ、ペット禁止だから。猫は嫌いじゃないのよ。実家には三匹もいる。いえ、一匹は去年死んだから今は二匹。鼠は、あれは野鼠ね。物騒なのはソイツらが大きな斧を振り回したりダイナマイトを爆発させたり変な煙の出る毒薬をまき散らしたりして、お互いにお互いの命を奪おうと躍起になってることなの。そう、ただの猫と鼠じゃない。悪魔の使いか、猫と鼠の姿をした恒星間戦争中の異星人同士か、とにかくなにかベツモノ。普通の猫や普通の鼠はだいたい素手でやりあうもので、武器は使わないものでしょ。

俺はアパートの上がり口で靴を履いたまま煙草を吹かす。下着姿の女はゴミ袋に囲まれた万年床にペタンと座ってブツブツ続ける。

でね、斧とかダイナマイトで殺しあうから、ワタシ、トバッチリで自分が怪我したりするのはイヤだから寝ないでずっと見てるわけ。だから(だからってこともないけど)ワタシは大丈夫なの。けど、直にやりあってる猫と鼠は、やっぱり時々お互いの攻撃を食らっちゃう。で、猫の方がね、いつも致命傷を受ける。ダイナマイトで体が吹き飛んだり、サーベルで細切れにされたり、毒液食らって顔が緑色になってぶっ倒れたりする。死んだと思うでしょ。いえ、普通の猫ならそれで死ぬわよ。っていうか、実際その猫も死んでるのよ。体が木っ端みじんに吹き飛んだり、でっかいトンカチでぺちゃんこになってるんだから。でも死なないの。厳密に云うと死ぬんだけど生き返る。確かに死ぬけど、そのあとナニゴトもなかったかのように生き返って、また追っかけっこを始める。朝が来るまで。ワタシ、アイツらはナニモノって思う。ねえ、鼠はマダシモ、あの不死身の猫ってナニ。

ナニって、わりと有名な猫だよ。鼠はその仲間。な、か、よ、く、けんかしなってやつさ。アンタも知ってたんだろうけど、死んで忘れてしまったのさ。記憶の映像だけが残って、インデックスの方は欠落してしまった。だからそれが何を意味するのかアンタにはもう分からない。それだけのことだ。

女はポカンとしている。俺は土足で万年床の上まで歩いて、脂でぺったり潰れた女の髪に「成仏湯」を振りかけた。すぐに頭の上に光の輪が現れ、女は消えて成仏した。

「帰ってきたヤツ」


今度帰って来たヤツに限らず、連中、わりと色々壊すだろう。橋を壊したり、コンビナートを爆発させたり、港の中で派手にバチャバチャやって大津波を起こしたりさ。一般家屋も時々壊す。まあ、あんなデカイ怪物と格闘戦をやりゃあ、ビルも壊すし家も壊す。それは仕方ない。不可抗力。怪物退治の公益性を考えれば許せる範囲の損害だよ。そんなことは分かってる。ワタシらも素人じゃないんだからね。

と長官は云った。俺は、本当は少しも同意してないけど、面倒なので、そうですねと答えて煙草の煙を吐く。健康フェチの長官はイヤな顔で、俺としてはいい気味だ。長官は、長官室の空気清浄機のリモコンを手に取りスイッチを入れる。

様々な困難を乗り越えて国を運営するのに、犠牲者ゼロとか、百パーセント補償とか、そんなこと云えるわけもヤレルわけもない。そんなことはワタシらプロにとっては常識だよ。ひと月前の怪物退治の時には商社の入ったビルが倒壊して従業員294名が犠牲になった。

長官は机の上の報告書を手に取る。

昨日のコレだって、怪物退治はイイとしても、あの時アイツが尻餅をついて壊した新聞販売店のビルの中にはまだ人がいたんだ。この報告書にある。一家5人と従業員4人。全員がビルのガレキにより圧死。もしかしたら、ガレキじゃなくて、アイツの尻に押しつぶされたのかもしれんがね。

長官は机の上にファイルをポンと投げ置く。

ワタシが指摘したいのは、市民はこうした被害を受け入れているという点だよ。一部のイカレ頭以外は、皆、社会全体のためのやむを得ない代償とみなしているのだ。それはある種の賢明さだよ。

そうですね、長官。俺はポケットからアンプルを取り出す。

だから、原発事故被害もそれと同じように考えることは出来んのか、とワタシは云いたいわけだよ。同じだろう。同じなんだよ。そうは思わんかね、君。

長官って、何の長官か俺は知らない。興味もない。長官と呼ばれているから俺も長官と呼ぶ。そもそも、長官ってどの程度の地位なんだ。将軍より偉いのか。総理大臣よりは下だろうが、ただの大臣と比べるとどうなんだ。どっちにしろもう死んじまってるんだから関係ないか。長官は、アイツの尻餅被害の犠牲者第一号だ。

俺は、成仏湯(ジョウブツトウ)のアンプルを折って、中身を長官に振りかける。長官の頭の上に光の輪が現れる。長官はまだ喋り続けているがもう声は聞こえない。

長官は天に昇って「成仏」した。