2019年12月25日水曜日

刑罰のこと(無期懲役に万歳三唱する人殺し)


「控訴はしません。万歳三唱をします」の裁判についてテレビの人たちの言うことを眺めていて、どうも、21世紀になってもイマダに刑罰に対する認識が統一されていないと思った。

もっと原始的な、ただの「罰」というとき、誰の目にもよくわかるのは「懲らしめる」という要素。人間に限らず、野生動物は「不適切」な振る舞いが原因で、仲間や敵や自然から「罰」を受ける。このとき「罰」を受けた対象は「懲らしめられた/痛い目に遭わされた」ように見えるし、当人も実際そう感じているだろう。しかしこれは「罰」の表層に過ぎない。

罰の本質は「排除」。「懲らしめ」は手段・経過・過程・方便に過ぎない。一見そうは見えないがそうだ。罰の目的は「排除」(ちなみに、罰の「抑止効果」は「あらかじめなされる排除」「未然の排除」)。

罰が排除を目論む対象は「好ましくない現象・不適切な現象・不愉快な現象」つまり現象それ自体。具象物としての或る生物個体は、その現象を生み出した源ゆえに「排除」の「途中経過」である「懲らしめ」を体験する。消防士は火を懲らしめているわけではなく、排除している。

法律を持たない野生動物が別の野生動物に与える「罰」は、「痛い目に合わせる」という手段を経由して、自身にとって不快で不適切な現象を、自身の生活圏や活動圏から「遠ざけて」いるだけ。繁殖期のオス同士の争いが滅多に「殺し合い」にならないのは、不愉快な現象を生み出す対象を「遠ざければ(排除すれば)」用が足りるから。

「排除」には究極のカタチがある。排除の対象となる存在を、存在世界全体から排除することだ。すなわち完全なる消滅。生き物に伴って起きる現象を完全に消滅させようとするとき、もっとも手っ取り早くて確実なのは、当該の生き物もろとも消滅させること。言い換えるなら、当該の生き物を殺してしまうこと。これを人間の持ち物である刑罰の用語で言えば「死刑」になる。

人間が死刑を手放せないのは、特定の人間が生み出す「不適切な現象・不快な現象」を対象にした「究極の排除手段」を、死刑以外にまだ手に入れていないから。すなわち、相対的にテマ・ヒマ・カネのかからない「永久的な排除手段」として、死刑を超えるものを手に入れてないから。なんと言っても、生命教に骨の髄まで毒された「文明人」にでもならない限り、無反省の殺人鬼を社会全体で養い続けるのは、不合理且つ不条理だと思うのが「人情」で、だから人間(社会)は現状、「死刑」は手放せない。

これをひっくり返すと、不快で不適切な現象の「完全な排除」が実現できる方法が他にあるなら、「死刑」はもちろん、方便としての「懲らしめ」すら要らない。かつて「治療」と称して行われた「犯罪者」に対する無知でガサツな外科手術や薬物投与がソレ(ついでに言えば、だいたい、異教徒や同性愛者を犯罪者扱いしていじめるのは、架空のサッカー帝国の法廷が、手を使ってボールを運んだ者を有罪にしているようなもの)。今現在行われている[犯罪者に対する精神鑑定やそれに続く「治療」の類]も実は同列。ここにあるのは、不適切で不快な現象を「排除」するのが目的なら、何も手段は「罰」に限らない。「治療」でいいじゃないか、という発想。その発想自体はケッコウ。しかし「治療」する側の実力がまるで伴ってなくて、「治療」ではなくやっぱり「罰」(犯罪者自身やその被害者にとって)になってるのがオモシロイ(というか情けない)。

さらに不穏なことを付け足せば、そもそも「治療」される犯罪者は「罰」が効かないから治療するんだという側面もあったりなかったりする。

だらだらと喋り続けるなら、刑罰の目的が「懲らしめ」や「復讐」だとみんなに「誤解」されていた過去には、死刑囚をそう簡単には死なせない様々な死刑方法が考案され、実施された。すなわち、できるだけ苦しめて、ゆっくりと殺す方法だ。

過去に於いて、殺し方(死刑方法)が様々に工夫されてきた理由は簡単で、「懲らしめ(罰)」に対する反応(苦しみ具合)が人によって様々だからだ。人前で嘲笑されただけで死の苦しみを味わう者もいれば、鞭打ちに快感を覚える者もいる(『ヘルレイザー』)。そして「なによりも死こそが安らぎ」という変わり者まで稀にはいる。つまり、「懲らしめ」目的の残忍な死刑方法が「工夫」されたのは、死刑をあたえる側(社会や体制)が、万人が死の苦しみを確実に味わう方法を探し求めたからだ。「排除」はどこに行った? 典型的な本末転倒。

刑罰(罰)を「懲らしめ」だと認識するのは、歴史的に見ても誤りであり、自然史的に見てもlost highway状態。人間が生み出す「不快な現象・不適切な現象」を社会から排除することが刑罰の目的だから、「死刑」が「イヤだ」という[純度を増した生命教信仰社会]では、殺人鬼を税金で養い続けるのが「正しい」刑罰のやり方という結論になる。しかし、生命教の呪いから脱却し、物生知現象論的な「家事」の煩わしさから自由になれば、件の[万歳三唱の人殺し]は、人間の「生業」にとって邪魔な存在でしかないわけだから、生かしておく理由は何もない。

何度でも言うが、物生知現象論から言えば、生命にとりわけの価値はない。生命の価値は知性の認証に依存する。実際、当の生命は「生命は尊い」などとは思いもしない。生命が尊ぶのは生命ではなく「身内=遺伝的繋がり」だけ。だから、或る知性が生命の価値を損なうなら、当該知性が依存している当該生命の価値を、知性によって構成されている人間社会が認証を与える続ける理由はない。

おまけで言えば、殺人鬼に対する死刑を嫌がるのは、宗教を理由に、子供への輸血を拒否したり、牛やら豚やらの肉を食べたがらなかったりするのと同じ「信仰」がもたらす歪み。人間にとって生命は大事だが、生命の神聖視は、知性にとっては「命取り/致命的」。

2019/12/25 アナトー・シキソ

2019年12月22日日曜日

「家事」に関する議論は、全て相対的なものである。

2019年11月15日金曜日

無灯火(てつねこ)



1)[生命現象]から出現した人間という[知性現象]は、自ら作り出した[生命現象に依存しない知性現象]即ち[人工人格]に、自らの[知性現象としての遺産]を引き継がせた後、[自発的絶滅]によって、漸進的にこの存在世界から消滅する。

2)全ての現象は[物理現象]である。

3)因果関係にある二つ以上の現象群が[生命現象]である。因果関係は「意図」や「目的」の鋳型であり、それが知性現象を出現させる。

4)現象に干渉する現象が[知性現象]である。第1の現象と第2の現象が互いに干渉して第3の現象が生じる時、[第1の現象と第2の現象の組み合わせ]と[第3の現象]の間に、それまでは存在しなかった[新たな因果関係]が作られる。[知性現象]の特徴は、この[新たな因果関係の創出]である。

5)知性現象としての人間の活動のうちで[生業]と呼べるのは、[人工人格の創出]だけである。それ以外の人間の活動は全て[家事]である。

6)人間という生命現象依存型知性現象が、自らが依存する生命現象の[要望や欲求]に対処するために行う人間の活動の全てが[家事]である。即ち、摂食・排便・睡眠から政治・経済・芸術・医術の全てが[家事]である。

7)人間社会の災厄の元凶は「生命教」である。全ての人間は[生命教]の[狂信者]である。神が人間の妄想であるように、生命もまた人間の妄想である。人間が至上のものとして崇め奉る[生命]の実体は[知性]すなわち[知性現象]である。[生命]および[生命現象]は[知性現象]のための[仕組み]に過ぎない。

2019年9月12日木曜日

「四色問題」のための落書き


存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している場合にのみ、領地と同じ数の色が要る。即ち、自身以外の全ての領地と境界を接している、という条件を満たしていない領地がひとつでも含まれていれば、その地図は、領地の数未満の色で塗り分けられる。

ところで、上で述べた、「存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している」という条件を満たす地図は、最大で幾つの領地を持つだろうか。答えは4つである。

領地を「○」で、領地と領地の境界を「ー」で模式化して表す。このとき重要なのが[「ー」同士は交差できない]ということ。なぜなら、「ー」は地図上の境界を模式化したものだからだ。地図上(2次元)では、或る境界を三つ以上の領地で共有することはできない。或る境界を三つ以上の領地で共有できると考えることは、ピザを切り分けるときの中心にあたる部分を、全ての切り分けられたピザにとっての境界と考えることと同じであり、その場合「四色問題」はすでに問題ではなくなる。「色は領地の数だけ必要」なのは自明のこととなるからだ。

さて、実際に作図してみれば、「ー」を交差させずに、全ての「○」を、それ自身以外の全ての「○」と繋げることができるのは、「○」が4つまでの場合である。

具体的に言えば、三つの「○」は三角形の各頂点として、お互いがお互い同士全て繋がることができる(これは簡単)。次に、4つ目の「○」を、「ー」を交差させずに、この三角形の頂点の三つの「○」それぞれと繋ぐと、必ずどれか一つの「○」が、三つの「ー」に取り囲まれてしまうカタチになる。これの意味するところは、この後、5つ目の「○」が現れて、すでにいる4つの「○」と「ー」を繋ごうとしても、必ず、どれかの「ー」と交差してしまうことになるということ。先に言った通り「ー」同士は交差できないので、5つ目の「○」すなわち領地は自身以外の他の領地の全てとは繋がることができない。これを逆に言うなら、5つ目の領地は、繋がることのできなかった領地と同じ色で塗ることができるということ。つまりこの場合、5色目は必要なく、4色で足りる。

ところで、「四色問題」に於いて、「領地の数」には「見かけの数」と「実質の数」がある。「実質の数」は、自身以外の全ての領地と繋がっている領地の数のことである。「見かけの数」は、[「実質の数」を形成している領地群によって使われている色]の[どれかと同じ色]をした領地が繋いでいる[「外側」の領地もしくは領地群]を含めた「全体の数」のことである。

「○」と「ー」が横一列にどこまでも続く模式図を想像してみよう。この時、「○」の数は100でも1000でも、色分けに必要な色は2色である。なぜなら、一番目の「○」と二番目の「○」はお互いに繋がり、「二色が必要な領地群」を形成しているが、三番目の「○」は二番目の「○」とは繋がっていても、一番目の「○」とは繋がっておらず、一番と二番の形成している領地群の「外側」の存在だからだ。もちろん、立場を入れ替えて、一番目の「○」が、二番目と三番目の「○」が形成する領地群の「外側」にいると考えても構わない。肝心なのは、或る領地群を形成する領地のどれか一つとでも接続ができていない領地が現れるたびに、「実質の数」の数え上げはリセットされるという点だ。

どんなに込み入った地図でも、模式図にしてみれば、最大で4つの領地がお互いが直に繋がっている領地群を形成し、それが、身内の中の少なくとも一つの領地に「内緒」で、他の領地群と繋がっているだけである。

「四色問題」の答えを得るのに数学など必要ない。丸(○)と棒(ー)で落書きができればいい。

2019/09/12 アナトー・シキソ

追記。
余計なお世話かもしれないが、念のために言っておくと、「境界」というものはそれ自体で独立に存在することはできない。地図上で領地と領地を「隔てる」のは、お互いの存在である。境界などというものはただの概念で、実在しないのである。既にある「境界」を第三の領地の境界にもしようとすると、必然的に、最初にあった境界に変更が加わる。最初にあった境界が全部失われた場合は、[第一の領地と第三の領地の境界]と[第二の領地と第三の領地の境界]の二つが新たに作られる。最初にあった境界の一部だけが失われた場合は、元からあった境界と合わせ、三つの境界が出現することになる。だから、上で述べた模式図で「ー」が交差するような形、つまり、「十」の4つの頂点それぞれに領地が存在するような形を作ることは、第三の領地が、既にある[第一の領地と第二の領地の境界]を、第一の領地と第二の領地を「引き裂く」ことで消滅させ、自身は第四の領地と新たに境界を作り、しかしその一方で、その「引き裂き」「消滅」させたはずの境界は以前として存在している(第一の領地と第二の領地は繋がっている)かのような「嘘」をつくことである。

2019年9月10日火曜日

誰に向かって「銃乱射事件を許さない」と言っているのか?


アメリカ社会が「銃乱射事件を許さない」という点では意見が一致しているにも関わらず、銃の規制では対立するのは、言うまでもなく、乱射事件が頻発する原因を、「銃の氾濫」という「社会の問題」と捉える人間と、「乱射犯人の異常性」という「個人の問題」と捉える人間の、二種類の人間がアメリカ社会に存在し、対立しているからだ。



アメリカが世界でも突出した「銃社会」であることは、子供でも知っているこの時代の「地球の常識」である。子供といえば、家族で回転寿司に行って、卵を食べた長男だけが食中毒になったら、食中毒の原因はまず間違いなく卵だろう。同様に、銃が氾濫した「文明国」で銃乱射事件が多く、銃が氾濫していない「文明国」で銃乱射事件が少ないのなら、銃乱射事件の多さは、当然、銃の氾濫にあるとか考えていいはずだ。原因を特定する際に注目すべきは「違い」だからだ。この道理が、アメリカの銃乱射事件の頻発の原因を犯人個人だとしたがる連中には見えないのか、見ないようにしているのか、見えていて敢えて棚上げにしているのか? ともかくここで最初の「バカはほっといて、この世の終わりまで身内で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動が湧き上がるわけだが、今はぐっとこらえて、話を先に進める。



銃社会アメリカには、家庭の戸棚や引き出しに、あるいは薬局や酒場のカウンターの裏に、拳銃やライフルが置いてあることに何の違和感も持たない人間が、地球上の他のどの「文明国」と比べても桁違いに多いのだろう。一言で言えば、アメリカは世界一「銃に慣れている」人間が多い国なのだ。しかし「慣れている」と「鈍感」は表裏一体である。だからこそ、銃規制のような[正解が初めから分かっているようなこと]で、国を二分するような対立が起きてしまう。



「銃に慣れている」人間にとって、「銃の氾濫」は「自動車の氾濫」程度の問題でしかないので(=普通のことなので)、当然、銃乱射事件の根本原因は、銃乱射事件を起こした犯人にあるということになってしまう。ちょうど(「銃に慣れている」アメリカ人と同じように)「自動車に慣れている」地球上のあらゆる「文明国」の市民たちが、自動車による死亡事故の根本原因を「自動車の氾濫」にではなく、死亡事故を起こした個々の運転手や個々の自動車や個別の状況に求めるのと同じ構造だ。そこにまで思いが至れば、一部アメリカ人の「銃の氾濫に対する鈍感ぶり」も、殊更異様なことだとも思えなくなり、先に言った「この世の終わりまで身内同士で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動も多少は治まる。所詮、同じ穴の狢、というわけだ。



大抵のことに人間は慣れてしまうし、一旦慣れてしまえば「異様」は「普通」になり、まさかそれが今目の前で起きている問題の根本原因だとは思えなくなる。これは人間の「半合理主義」(←半分だけ合理的になって、どうせ最後は死ぬだけの自身の生涯の無意味さを曖昧にする主義)の弊害だが、人間は人間である限り、この主義を乗り越えることはできないので、ココをどうこう言っても始まらない。



はっきりしているのは、銃乱射事件を起こすのは、[それが職業というわけでもないのに、いざとなったら(自分の中で二進も三進もいかなくなったら)、(拳でも棍棒でも包丁でもなく)銃にモノを言わせようと思う人間]だということ。すなわち、銃規制に反対する者(=[市民から銃を取り上げること]に反対する者)は、それが自衛のためだと主張していたとしても、悉く、銃乱射事件を起こす可能性のある側の人間だということ(逆に言うと、社会から[個人所有の銃]をなくせと主張する者は、いざとなっても銃には頼らないつもりの者たちだ)。仮に、銃の攻撃から身を守る「抑止力」として、銃を所持しているのであって、自分は決して銃で人は殺さない(殺そうとしない)と主張する者があったら、彼らに、本物と見分けのつかない、しかし殺傷能力はゼロの精巧なモデルガン(たとえば空砲しか撃てない拳銃)の所持を提案してみればいい。その提案は必ず拒否されるだろう。[銃規制に反対する]とは、つまりはそういうことなのだ。いざとなったら実際に誰かを撃ち殺すつもりがある(撃ち殺しても「許される」と思っている)からこそ、銃を持っていたい。そういう人間にとっては、実際に殺傷能力がある銃でなければ、所持している意味などない。



もちろん「自分が殺されるくらいなら相手を殺すべき」は、生命現象の根本原理である。「黙ってやられるくらいなら、先に相手のやっちまえ」ルールは、人間が生命現象である限り否定できないし、排除もできない。しかしだからこそ、人間に銃など渡してはダメなのだ。「いざとなったら誰かを殺す」という本性を人間から取り除くことは不可能(それがソモソモの本性の定義だ)。しかし、そういうふうにアタマに血が上りがちの存在である人間に与える「手段=道具」は、選ぶことも制限することもできる。「手段=道具」は、人間の本性には属していない「外部」だからだ。そして、与えられる「手段=道具」としての銃は、その殺傷能力の高さ(逆に言えば、お手軽さ)ゆえに問題なのだ。それを使えば、誰もが手軽に誰かを大量に殺せてしまえる。



更にここで気づかなければならないのは、銃乱射事件を起こすのは、必ず「自分には他の誰かを銃で撃ち殺すだけの/当然の/やむにやまれぬ理由がある」と考える人間だということ。イカれていようと「正常」だろうと、銃乱射事件の犯人達は、間違いなく「自分が大切だと思うモノを守るために」他人を撃ち殺している。銃規制に反対する者の考え方と全く同じである。ことによると、銃乱射事件の犯人たちを突き動かすのは、犠牲的精神ですらあるのかもしれない。自ら無法者として裁かれ殺されるコトを覚悟の上で、「大切なもの」を守るために「凶行」に及ぶわけである。であるなら、そこにあるのは悪意どころか、悲壮的な善意である。やれやれ、ここでも人間の半合理主義が祟ってる。



銃規制に反対する者は、悉く、銃乱射犯予備軍だと見做して構わない。しかし、だからと言って、ただちに全員を牢屋ヘぶち込めというのではない。彼らは、人間存在に対する認識が単純で、「善人」や「悪人」などという[定義が曖昧で幼稚な概念]を用いて社会を理解し、全ての「犯罪者」が、彼ら自身にとっての「正当な」「理にかなった」「他の何よりも重要な」「止むに止まれぬ」理由で「犯行」に及ぶのだということも洞察できないが、それ以外は、我々と変わることのない善良な市民だ。



自動車事故がそうであるように、銃乱射事件も人間自体の制御を試みてもなくなりはしない。自動車事故に関して言えば、人間社会はそれが一定程度発生することを「受け入れて」いる。自動車そのものは社会から排除せず、人間の振る舞いによって自動車事故を回避しようとするなら、そうする(受け入れる)他ないからだ。しかし、銃乱射事件はどうか? その発生を、自動車事故並みに「受け入れる」ことは、殆どの人間や社会にとって悍ましいことであるはずだ。自動車事故だって、できればゼロにしたい。しかし、銃乱射事件は、「できれば」ではなく、是が非でもゼロにしたいはずだ。なら、人間をどうにかしようとしてもダメで、銃をなくすしかない。なんと言っても、ないものは使えないのだから。(ちなみに、乱射殺人は故意だが、交通事故殺人は過失であり、同列に考えるべきではないと思うなら、とんだお人好しである。飲酒運転、スピード違反、あおり運転、過積載、信号無視などはもちろん、たとえ交通ルールを守って制限速度で走っていても、生身の人間がウロウロしているすぐ横で1トン前後の重量物を、猛烈な速さで動かしているのは、ショッピングモールの真ん中で誰もいないところを狙って水平に拳銃をぶっ放してるのと変わらない。これで誰か死ねば、表面上は過失でも、実質は故意である。)



もう一度言おう。[いざとなったら撃つ]人間だけが銃乱射事件を起こす。そして、それは大抵ごく普通の善良な人間だ。銃乱射事件を起こす可能性があるからと言って善良な人間をあらかじめ社会から取り除くことはできない。だから、銃の方を社会から取り除くのである。

銃規制に反対する者たちの意見を聞き入れることは、銃乱射事件の犯人の云い分を聞き入れることに等しい。銃乱射事件を許さない立場なら、銃規制に反対する者たちの意見は無条件で退けて構わない。

また、銃規制に反対を表明することは、自分が銃乱射事件の犯人予備軍であることを表明するのに等しい。だから、銃規制には反対しつつ、しかし銃乱射事件は許さないと表明するのは、銃規制反対者とはすなわち銃乱射事件犯人予備軍という構造に気づかないほど、自分は愚かなのだと表明するのに等しい。

2019/09/10 アナトー・シキソ

ひとつ言い忘れた。
銃の所持や射撃は、たとえばラジコンヘリを蒐集したり飛ばしたりすることと同じで、趣味=道楽の一つだと主張する輩には、他人の道楽のために自分の子供が殺されるのはごめんだと言えば充分。また、銃の所持や射撃は、古くからの守るべき伝統だと主張する輩には、チベットの鳥葬だって、日本の晒し首だって伝統だった。ヨーロッパの決闘もそうだ。そうそう、世界中にある「名誉殺人」の類は悉く伝統だ。「女は家庭を守るもの」も伝統だったし「父親の意見は絶対」も伝統だった。「結婚相手は親が決める」も「赤ん坊にハイハイをさせない」も「殺した敵部族の脳を食べる」も伝統だった。伝統は必ずしも[守り続けるに値するもの]ではない。むしろ、何かが行われ続けているとき、その理由が「伝統だから」の一つきりなら、その「真価」を問い直してみるべきだ。アメリカの「伝統」である「個人の銃の保持」は、はた迷惑という点で、「名誉殺人」の伝統とどう違う?

2019年9月4日水曜日

「スタンド論 〜『ジョジョの奇妙な冒険』考〜」


この長大な物語の全てを一度に論ずることは難しい。しかも一旦は終了したはずが、まるでプロレスラーの引退と復帰のように、新シリーズとして再開され、今現在連載されているのだ。とてもここで全てを賄いきれるものではない。

そこで今回は第3部から登場した「スタンド」に的を絞って考えてみたい。作者自身が語っているように、第1部、第2部はいわば、肉体対肉体がテーマだった。あるいは圧倒的に強力な肉体を持つものに「貧弱な」人間が知恵と勇気で戦いを挑む物語だ。戦うべき相手はあくまでも強力な肉体を持った存在だった。

それが第3部では「精神力」の戦いへと変わった。

「スタンド」とは精神力が映像化したものだ。強いスタンドは強い精神力から生まれる。スタンドはそのスタンドの本体となる人間の精神そのものなのだ。本当に恐ろしいのは肉体ではない。それを操る精神すなわち心なのだ。だから肉体と肉体の戦いは、実は心と心の代理戦争に過ぎなかった。ならば、その心を目に見える形で直に戦わせれば、どうなる?

この実に魅力的な問い掛けに答えるために、第3部は始まった。

実をいうと「ジョジョ」以前にも人の[心と心]=[精神力と精神力]の戦いを描いたものはかなり存在した。つまりは超能力者同士の戦いだ。

まず思いつくのが横山光輝の古典的名作『バビル2世』だ。この『バビル2世』には荒木もかなり影響を受けたようで、「第3部」の主人公である承太郎や花京院がいつまでたっても学生服のままなのはまさに「バビル2世」の主人公に倣ったものだ。バビル2世は砂漠でもあの暑苦しい学生服を着ていた。承太郎がいくら暑くても決して学生服を脱がなかったのは作者の[先達に対する敬意]の表れだろう。

また、少し時代を下ればあの一世を風靡した大友克洋の『アキラ』がある。この作品こそはまさに「超能力者もの」の今に続く王道だが、大友にはこの作品とは別に「童夢」というやはり、超能力を持つ「子供」を描いた作品がある。目に見えない力が壁をドーム状にへこませ人を押さえつけるシーンは知る人ぞ知る名場面だ。

第3部からの『ジョジョ』も間違いなく超能力者同士の戦いを描いた作品なのだが「スタンド」という新たなシステムを「発明」したことで、それまでの「超能力者もの」とは一線を画す作品となった。今までの「超能力者もの」は、どれも超能力の力を表すのに「結果」だけを描いてきた。例えば、いきなり頭が爆発してみたり、鼻血が出たり、あるいは物体が勝手に浮き上がったり、壊れたりと言った具合だ。つまり超能力者の力が発揮されたときに「なぜそうなるのか」は全く描かないままで、「力」が行使された「結果」だけを描いて済ませてきたのだ。

すでに「スタンド」によって、超能力(精神力)の視覚化を体験してしまった我々からみれば、今までの「超能力者もの」はずっと超能力を持たないもの(ジョジョ的に云えばスタンド使いではない者)の視点から描かれてきたということになる。

「ジョジョ」以前「スタンド」以前のかつての「超能力者もの」は作者は自身で超能力者を描きながらも無意識のうちに、こちら側(超能力を持たない一般人側)に立っていたわけだ。だから、彼らは、超能力の結果を描いても、それを説明する必要はなかった。いや、必要性を感じなかった。超能力者に超能力があることを認めれば、あとは何の迷いもなく、超能力が行使された結果だけを事実として描けた。「超能力は分からないものだ」で済ましていられた。なにしろ一般人なのだ。一般人に超能力は理解できない。ただ、起きたことを見て驚くだけだ。いや、もしかしたら「超能力者自身にもなぜそうなるのか分からない」という認識を持っていたのかもしれない。

だが、「ジョジョ」の「スタンド」はそれはちがうと言った。超能力者には「力」が見えている。なぜ、頭が爆発するのか、ものが持ち上がるのか、超能力者にはその理由が分かっている。なにしろ「見えている」のだから。超能力者にとって、それは目の前で起こっている当たり前の光景としか映らない。超能力者にとって超能力は不思議でもなんでもないのだ。「ジョジョ」においては、超能力者はつまり「スタンド使い」だが、彼らには見えるのだ。敵の頭が砕け散るのは、スタンドが敵の頭をうち砕いているからだし、車が持ち上がるのはスタンドが持ち上げているからだ。あるいは、拳銃の弾が空中で静止するのはスタンドがすばやくつかみ取ったからでしかない。ただ、スタンド使い(超能力者)ではない一般人にはスタンドが見えないので、それが不思議な光景として映るだけなのだ。

「スタンド」は、超能力の「力」そのものに「形」を与えた。それは同時に超能力を説明する方法にもなった。「ジョジョ」以前は超能力が引き起こす現象は説明不可能なものでしかなかった。どんなに超能力を描いても、超能力の説明にはなっていなかった。超能力者同士の戦いでも、実際彼らが何をしているのかは分からなかった。ただ苦しがったり、はじき飛ばされたり、急に死んだりするだけだ。決着が付くときはいい。そうでなく引きわけに終わったときなどは、結局超能力者が難しい顔をして汗を流して、それで「ふう」とため息をついて終わりだ。いや、それはそれでなかなかに緊迫感のあるものだが、現実問題として[描写としてはかなり地味]だ。派手な格闘も何もないからだ。ただじっとして、時々触ったり、手を握ったりするだけなのを見ていてもつまらないだろう。スタンドのお陰で「ジョジョ」では本来(?)地味なはずの超能力者同士の戦いをド派手な大格闘として描くことが可能になった。

超能力の「力」がスタンドという形を与えられたことで戦いは途端に分かりやすくなる。スタンドなしでは絶対描けない超能力合戦の末の「紙一重」の勝利でさえ「リアルタイム」で読者に示すことが出来る。もしスタンドがなければ、強力な超能力者同士が息を詰めて黙って向き合ったあとで、どちらかがばたりと倒れる。勝ち残った方が「危なかった」と安堵の言葉を漏らして初めて、戦いの展開がどうだったかをある程度推測出来るだけだ。しかし読者には一体何がどう危なかったのか、どの程度危なかったのかも分からない。第一これだと結局誰と誰が戦っても同じ光景しか描けない。いつも「睨み合い」と「ばたん」と「危なかった」で終わりだ。超能力者を描くはずのマンガがすぐに超能力を描くことにマンネリを起こすことになる。超能力者の最大の見せ場であるはずの超能力の行使の場面がいつも同じに、しかもかなり地味になってしまう。超能力者マンガが存分に超能力を描けないという笑うに笑えない状況が生まれるということだ。

その意味で「スタンド」は画期的な発明だと言える。存分に超能力を描けるからだ。「スタンド」は、超能力がなぜそのような現象を引き起こすかを読者にも見える形で説明してくれる。「見えない力」を「見える力」つまりスタンドに置き換えたことが『ジョジョ』の最大の功績であり、長期にわたる成功の秘密だった。


(2)

ところが、長期に渡って描き続けているうちに、生みの親である荒木自身が「スタンド」の意味を変容させてしまった。意識的であるかどうかは分からない。

どういうことか?

つまりこうだ。荒木は、超能力者の能力そのもを擬人化あるいは映像化したはずのスタンド自身に更に「超能力」を持たせてしまったのだ。一般人には見えない超能力者(スタンド使い)の能力はスタンドとして、超能力者と読者には顕在化された。しかしその顕在化されたスタンド自体が更に超能力者自身にも読者にも「見えない謎の力」、言ってみれば「超・超能力」を持ってしまったのだ。

例を挙げてみよう。最も分かりやすい例は、第5部に登場する「クラフトワーク」というスタンドだ。実は私がこの文章を書こうと思ったのもこのスタンドの登場がきっかけだった。

スタンド「クラフトワーク」の能力は触れた物体を空間に固定させることだ。このスタンドは自身の射程内、つまり力を発揮できる範囲内であれば、あらゆるものを静止・固定させることが出来る。たとえ、それが空中であってもだ。だから向かってきた弾丸なども空中で止めてしまえる。しかしなぜ、そうなるのかは全く説明されない。なぜ、弾丸は空中で止まるのかは全く描かれない。スタンドがその手で直に弾を止めるわけではない。スタンドの射程の範囲に入れば、弾丸はただ止まるのだ。これはスタンド自身が「超・超能力」を持っていることを意味する。

この違いは初期のスタンドと比べてみると分かりやすい。比較対象は第3部の主人公スタンド「スタープラチナ」だ。いい具合にこのスタンドも劇中で弾丸を「止めている」からだ。だが、「スタープラチナ」の弾丸の止め方は「クラフトワーク」の「超・超能力」とは全く違う。「スタープラチナ」は「指で掴んで」弾丸を止めるからだ。「スタープラチナ」には「クラフトワーク」のような「超・超能力」はないので、もし弾丸を掴み損ねると、弾丸は止まらない。(もちろん「スタープラチナ」が後に獲得する「時を止める」という「超・超能力」を使えばそれは可能だが、ここで言いたいのはそういうことではない。)

「スタープラチナ」の「掴んで止める」という方法だとスタンドが掴んだ弾丸を離してしまえば、弾丸は下に落ちる。人間が持っているものを手放すとその物体が下に落ちるのと同じことが起こる。これは読者にも劇中のスタンド使いにも自然で分かりやすい。しかし「クラフトワーク」の場合、スタンドの「超・超能力」が効果を発揮していれば物体はずっと空中にとどまっているのだ。まるで「クラフトワーク」自身が目に見えないもう一つのスタンドを出現させて、物体を支え続けているかのように。


(3)

この二つのスタンドの違いは何かと言えば、つまりは作者自身のスタンドの解釈、あるいは定義の変化と言ってもいい。

初めスタンドは超能力者(スタンド使い)が現実の物体に影響を及ぼすときの力そのものとして描かれた。一般人には見えなくても、スタンドのやることが見えれば、物体がなぜそうなるのかがスタンド使いと読者には分かった。スタンド使い(超能力者)が念じただけで物体が動いても、実は彼のスタンドが「実際に」その物体を動かしているのだ。しかしスタンドは次第に変化し、超能力者の能力の「象徴」になった。こうなるとスタンドを見ただけはどんな能力を持っているのか全く分からない。ちょうど、一般人と超能力者の区別が見たたででは付かないように。

実際、この変化の始まった第三部の終わり頃からスタンドは「触っただけで」ありとあらゆることをやるようになる。スタンドが触れば、破壊されたものが復元され、生命が誕生し、ジッパーが現れ、肉体が若返っていく。そしてなぜそうなるかは一切説明されない。さらに強力なスタンドになると、そうしようと思っただけで、時間までコントロールするようになる。もはや触ることさえしない。もっとも、時間を止めるのに何に触れればいいのかという問題もあるが。

スタンドの「超・超能力」はそのスタンドの本体であるスタンド使い自身にも理解も説明もできない謎の力なのだ。「なぜかは分からないが、そういうことが出来る」というレベルだ。

ここに三つの世界が見て取れる。三段階の能力だ。

まず初めは一般人にも理解と説明のできる能力。次がスタンド使いには理解と説明のできる能力。最後がスタンド使いにも理解も説明もできない能力。

一般人にも理解と説明のできる能力とはごく普通の、我々がよく知る物理法則にしたがった能力のことだ。コップを持ち上げる。ドアを開ける。水を撒く。

一般人には理解不可能でスタンド使いには理解できる能力とは、いわゆる一般的な超能力だと分かる。サイコキネシス、テレパシーなどは、起きた現象だけを見れば、程度の差こそあれ、どれも人間自身にも出来ることだ。つまり、ものを動かしたり、意志を伝えたりということそれ自体にはなんの不思議もない。それが超能力と呼ばれるのは、その一連の出来事に、あたかも全く介在するものがないかのように見えるからだ。だから、もしスタンドが介在しているのが「見えれば」、それは「なんでもないこと」になる。スタンド使いには理解が出来る能力とはそう言うことだ。スタンドによって引き起こされたとしても、起きたこと自体は平凡な出来事だ。壊れた、ぶっ飛んだ、切れた、燃えた。あるいは体に入り込まれてまるで催眠術のように操られた。

しかしスタンド使いにも理解できない「超・超能力」はそうではない。それは原因がなんであれ、引き起こされた現象自体が異常なのだ。超自然的と言い換えてもいい。それは介在しているものが見えないから、理解できないから異常なのではなく、どんな力が作用していても起こりえそうにないという意味で異常なのだ。そういう現象を引き起こす方法・手段を人間は持っていないし、知らない。

どうやって時間を止める? どうやって鏡の世界に入る? どうやって壁にジッパーを出現させる? どうやって一瞬で怪我を治す? どうやって人をあっという間に老人にする?

スタンドの「超・超能力」は超能力と言うよりも、現時点では別の部類に入る現象だ。一般的に、あるものは奇蹟と呼ばれ、別のものは呪いと呼ばれる。異次元の世界の問題として扱われるものもあるだろう。また、時間の問題は最先端の量子力学をオカルト的に解釈すると生まれる。

つまりどの現象もいかなる方法を用いても人間が実現できないものばかりだ。

スタンドは一般的な超能力の現象を説明するために発明されたアイディアなので、一般的な超能力以外の説明は最初から不可能なのだ。スタンドは人間のいる物理法則の世界から一枚だけずれた場所にいるだけで、その作用自体は、人間と同じ物理法則に従っている。だから、スタンドがその一枚隔てた向こうからどんな力を及ぼしても、現実の人間のいる場所で起こることは必ず人間の住む世界の法則つまりは物理法則に準じている。つまりスタンドがある物体に作用を及ぼしても、その物体自体は人間の住む世界の物理法則に支配され続けているということだ。だから、スタンドが棚から壺を落とせば、その壺は、人間の世界の法則に則って、床に落ちる。途中で、壺に関わる物理法則が変化して天井にぶち当たるということはない。だが、スタンドの「超・超能力」はその法則を破るし、全く理解不能の現象を引き起こし、落ちる壷を天井にぶつけてしまう。

(4)

スタンドというアイディアは非常に優れた便利なアイディアだ。この世界の不思議な出来事をほぼ全て飲み込むことが出来る。幽霊も、死後の世界も、UFOも、多重人格も、呪いも、奇蹟も、異次元もすべて、スタンドの「せい」に出来るのだ。

結局、つまりは、そういうことなのだ。
 
最初、スタンド使いの力そのものとして描かれたスタンドが、いつの間にか、スタンド使いとは別のキャラクターとして描かれ始めた。「別」という言い方は少し変か? スタンド使いとスタンドの関係が、ちょうど一人分横にずれてしまった。つまり、人間であるスタンド使いは、スタンドという超能力を持っている。そしてそのスタンドが自立した存在として更に「超スタンド」とでも言うべき「超・超能力」を持っている。そしてこの「超・超能力」は、もはや制限を持たないので、作者はあらゆるアイディアを割り当てられる。

このズレは、読者にとっても作者自身にとってもあまり意識されていない。しかしこのズレこそが肝心なのだ。

たとえば、時間を止めるとか、人間を爆弾に変えるとか、生命を生みだすと言った大それた能力を直接人間であるスタンド使い自身が持つのではなく、異形のスタンドそれ自体がが持っているというところに、妙な説得力と安心感が生まれるからだ。いや、結局はスタンド使いの能力には違いないのだが、実感として、読者は、スタンド使いとは、そういう恐ろしげな能力を持っているスタンドという魔物的悪魔的あるいは神的な存在を所有している人間というふうに見てしまう。

このワンクッション置いた状態は実は重要だ。

どんなに突拍子もない、あるいは無茶な能力でも[その能力]と[人間であるスタンド使い]の間に、これまた正体不明の超スタンドがいることで、その能力の突拍子のなさが一度、屈曲するのだ。[生身の人間]と[大それた能力]を直につなげないで、一旦迂回してから接続することになる。すると、そこに妙な説得力が生まれ、物語はある種の自在さを獲得する。

人間が時間を止めたり、老人を赤ん坊に変えたりは出来そうもないが、一種の魔物としての超スタンドならそういうことも可能だろうという、妙な納得の仕方を、作者も読者も、無意識のうちに行っている。

「ジョジョ」がここまでの長期連載作品になったのは、「スタンド」が持つこの「自在さ」が要因の一つなのは間違いない。


(アナトー・シキソ)

2001年6月11日初出
2012年8月21日改訂
2019年9月04日改訂

2019年8月27日火曜日

『ガンダムUC』を観た


『ガンダムUC RE:0096』を観た(GYAO!で。カネないので)。「節操ナイくらい阿った作品」というのが第一印象(で、最後までその印象は変わらなかったけど)。阿る対象は無論『富野ガンダム』。まあ、それはしょうがない。この作品のそもそもの「出自」(「制作動機」)がそうなんだから。

良く言えば(良く言えば?)、コネタ満載(と言うか「もう、オナカいっぱいです」ってくらい大量にガンダムコネタが出てくるから、もしかして実はバカにしてるのか? 実はパロディなのか?って思っちゃうくらい)の、ガンダムファンによるガンダムファンのための、『ガンダム』という作品それ自体がモチーフのガンダム作品。一言で言えば「メタ・ガンダム」。

で、結末まで見終わった時の印象は「随分、こぢんまりしたお話になっちゃったなあ」。フル・フロンタル(いやあ、full frontalって、English nativeにはどんな語感なんだろうと要らぬ心配までしてしまう)をパクって言えば、なんだか、ちいさな「器」の世界になちゃったね、と。

先に言った「ガンダム」要素を全部取っ払った時のこの作品の「正体」は何かって言ったら、結局、「戦争歴史物」ってことになる。つまり、NHKスペシャルでありそうな「激動の昭和史」的な。戦後70年が過ぎ、その当時は分からなかったことが、取材の結果色々分かって、実は裏であの軍人やあの政治家やあの大実業家たちがこんな画策をしてとか、あの国とこの国があんな密約を交わしていたとかっていう、歴史に埋もれた巡り合わせだの陰謀だの策謀だのを「へえーそうだったんだ」とか「なんて愚かなんだ」とか言って面白がるアレ。でも、そういうデキゴトは、『ガンダム』という作品の基準からすると、なんだろ、「背景」というか「方便」であって、まあ、また同じ単語を別の意味で言ってしまえば、料理に於ける「器」のようなもの。

でも、『ガンダム』ファンの結構な割合が、戦争マニアや兵器マニアや戦記マニアの類なので、こういう人たちが作る「続編」はどうしても、この「器」の方が凝ったものになる。こういう人たちは、使いたい「器」はたくさんあるけど、作れる「料理」(「人間」に対する独自な思想みたいなもの)はサホドないから、ドッカから(大抵は本家の『富野ガンダム』から、あるいは実際の戦記などから)借りてきたような登場人物たちが、ドッカから借りてきたようなセリフを吐きながら、死んだり、泣いたりすることになって、それを見せられてる方は、わりとシラケる。で、さっきも言ったけど、「これってもしかしてガンダムを貶めてる(バカにしてる)のか」って一瞬思ったりもする。

富野さんの手による『ガンダム』はどれも、その作品世界に「訳のわからない野蛮な壮大さ」みたいなものがある(『イデオン』もそう)。しかしこの『UC』にそれはない。「激動の昭和史」が「激動の宇宙世紀」になっただけのことだからだ。というと多少語弊があるが、しかし事実そうなんだから仕方がない。

ついでだから言ってしまえば、Nスペなんかで「激動の昭和史」的なものを見ている時の視聴者は必ず「上から目線」。つまり、前の時代や前の世代の人々の「愚かさ」「分かってなさ」に対して、やれやれと首を振る、という気分が必ずどこかにある。「歴史の後ろから来た者たちの特権」みたいなものを享受/悪用しているのだ。「激動の昭和史」的なものを見てると、驚くような陰謀策謀が渦巻き、たくさんの人が死んで、伸るか反るかの大勝負が展開されるけれど、その人々の「ツモリ」や「思い」が「(誤解にせよ)分かる」という感覚がある(構造は野球解説者の解説と同じ)。それが「作品世界の器」を「小さく」する正体で、まあ、本当はコチラ(見る側)の問題。

で、『ガンダムUC』にハナシを戻すと、この手の「激動の昭和史」的な物語を描いていると、戦いに巻き込まれた人々の陰謀や殺し合いや苦悩という「目眩し」に、おそらく製作者たち自身も騙されて「何か言ってるような気分」になってしまう。しかし、そういう「目眩し」から自由な目で作品世界を見てみると、案外「大したことは何も言ってない」ことに気づく。つまり、その作品ならではの独自性というか、一回では消化しきれないほどのデカかったり深かったりする思想性みたいなものはない。作品が提示する思想も解釈もどこか「既製品」的ということ。この『ガンダムUC』もそうした作品の一つ。作品の中で起きている事実は大掛かりで壮大っぽいけど、学校の屋上で中学生が、ただ大きな声で「好きだー」って叫んでる、あの感じに似てる。

物語は最後の最後に「千手観音=赤いネオ・ジオング」が、仏教説話よろしく、主人公を「世界の果て=時間の果て」に連れて行き、世の無常・人の無常を説くというオヤオヤな展開。通俗仏教の世界観は嫌いじゃないけど、アレをやっちゃって、「成仏しそこなったシャア」(フル・フロンタル)が、「ニュータイプ=仏陀(悟った人)」的なことを口走ってしまったら、もうただの法要の時の坊主の法話。この『ガンダムUC』で一番「ズッコケタ」のは、このシャア(の亡霊)に拠る「真のニュータイプ」解釈。

この宇宙の無常を悟ったものが真のニュータイプって話はまあいいとしても、真のニュータイプになったら、途端に肉体から自立した純粋な「個性=自我」だけの存在になって宇宙を飛び回るってのはナントモお粗末。けど、映画版の『イデオン』の最後の「とって付けたような場面」(富野さんが登場人物たちを「成仏」させようと思ったんだろう)にも通じるから、つまりは、ソウイウコトなのだろう。まあ、典型的な「生命教信者が作った生命教信者の世界観の作品」だよね。

ついでだから言うと、生命教信者による生命教信者のための生命教信者の世界観を描いた作品は、まあ、とことんまで行くと、結局みんなこうなる。なぜなら、生命教信者たちは、生命現象と知性現象の区別がついてないから、生命現象がいずれ必ず破綻するという事実に対して、どうしても「本当の生命」とか「生命の根源」みたいなものを夢想して、そこに「活路」なり「希望」なりを見出そうとするから。つまり、いずれ滅びる「肉体としての生命」とは別に、永遠性を持つ「肉体から自立した真の生命」というものが存在するはずだという「信仰」で、なんとか「虚しさ」を切り抜けようとする。そうとでも考えないとヤッテラレナイからね。でも、「永遠の命」つまり「死後の命」という概念は、生命現象型知性現象にのみ必要とされるもので、日本のお正月の門松のようなものでしかないことはキモに銘じておいたほうがいい。

まとめると、「激動の昭和史」的な「戦争歴史物」という車体に、「仏陀思想/悟り思想」というエンジンを載せて、ガンダム関連のステッカーをベタベタ貼った「ガンダム」型のカウルを被せて走らせたのが、この『ガンダムUC』という作品。ニセモノって言えばニセモノだし、ホンモノって言えばホンモノ。

2019/08/27 アナトー・シキソ

2019年7月5日金曜日

アナトー・シキソの「ケセラセラ」


あのさ、違うよ。「どうにかなる」と「なるようになる」は全然違うから。たとえば、何かノッピキナラナイ事態が進行しているとして、それについて、何の根拠もなく、とにかく最悪の結末は回避されると能天気に信じているのが「どうにかなる」で、最悪の結末が回避されても、訪れても、どちらであっても気にしないと笑ってるのが「なるようになる」。

アイツの態度は「なるようになる」であって「どうにかなる」じゃない。みんなよく間違えるんだけど、アイツのは「なるようになる」なんだよ。「どうにかなる」じゃなく。

アイツの態度の根底にあるのは諦め。人生に対する絶対的絶望だね。アイツの過去に何があったのかは知らない。何もなくて、ただ生まれつきそうなのかもしれない。いや、まあ、生まれつき人生に絶望している人間が果たしているものかどうかは知らないけどさ。

イイコトなど全く期待してないのに楽観的になるってことは、要するに、悲観が強すぎて楽観にまで突き抜けてしまった状態。アイツの場合はまさにそれなんだよ。

そういう点ではブラジルのサンバに似てる。サンバは、明るくて、ナンにも考えてないみたいに楽しげだけど、元々は、普段ギュウギュウに抑圧されている奴隷たちが、祭の時だけはハジケることが許されて、それで発展した音楽だからね。つまり、明るく楽しいサンバの、あの明るさや楽しさは、絶望的情況があればこその明るさや楽しさなんだ。

それはともかく。だから、普段の態度を見て、アイツのことをただの能天気だっていうふうに捉えると、アイツの本質を見誤るよ。ただの能天気は往く道だけど、アイツの能天気は還り道だから。

あと、日本の仏教には「他力本願」ていう考えがあるから、君は、アイツの態度をソレとゴッチャにしているところがあるね。でも、超越的な存在が良きに計らってくれると考えるのが他力本願で、良きに計らうも計らわないもないってのがアイツなんだ。全然違う。

そう、だから、相当テゴワイよ。あのお気楽そうな見た目とはウラハラに、その内面は複雑怪奇。実際、俺の仲間が何人もアイツの中に入り込んでソレッキリだからね。取り憑いて操るつもりが、ことごとく捉えられ、分解され、最後はきっとアイツの屁になって体外に放出されてしまったんだよ。だから帰って来ない。

うん。俺はもう退散する。俺たちが何をやっても無駄だってコトが、もう充分に分かったから。アイツはある意味、最強だね。

2019年7月4日木曜日

isotope 24「変身」


その朝、妹は兄を起こそうと部屋を覗いた。
だが、ベッドの上に兄の姿はなかった。
代わりに一匹の毒虫がシーツの上で仰向けになって無数の脚を動かしていた。
妹は年老いた両親に「お兄さまは毒虫になった」と伝えた。
両親は驚き、倅の部屋の覗いた。
妹がベッドの上の毒虫を指さす。
両親は抱き合って「倅は毒虫になってしまった」と云った。

一家は大黒柱を失った。
家族は話し合い、部屋を貸すことにした。
無論、毒虫(=兄=倅)の部屋だけは別だ。
貸せはしない。
ドアに鍵をかけ、その鍵は家族だけが持った。
毒虫(=兄=倅)の姿を他人の目に触れさせるわけにはいかない。

三人連れの男が下宿人になった。
妹と両親は居間へ移った。

ある日の夕食後、妹はバイオリンを演奏した。
下宿人たちが無理に強いたのだ。
妹の演奏を聴きながら、薄ら笑いを浮かべ合う三人の下宿人。
妹は蔑みに耐え、バイオリンの弓を動かし続けた。
その時、下宿人のひとりが床に一匹の小さな毒虫を見つけた。
彼は「おい、困るなあ、汚い虫がいるぞ」と云った。
妹と両親は揃って「あっ」と声を上げた。
「なあに、こんなものはこうやって」
別の下宿人はそう云うと靴の底で勢いよく毒虫を踏み潰した。
両親は床に崩れ落ち、妹はバイオリンを放り出して絶叫した。
そして三人ともそのまま意識を失った。
下宿人たちは「大袈裟だな」と顔を見合わせ笑った。

その時、毒虫の部屋でゴトリと音がした。

三人の下宿人は〈開かずのドア〉に目を向けた。
無音。
ドアの下から一匹の小さな毒虫が這い出した。
「まただよ」と下宿人のひとりが顔をしかめた。「掃除はちゃんと……」
云い終わる前にドアの下から更に3匹の毒虫が現れた。
続いて4匹、5匹……〈数〉はすぐに〈量〉になった。
ドアの下から溢れ出すそれは、まるで黒い液体だった。
ザワザワと鳴る無数の脚を持った異様な一塊。
それは床を流れ、壁を這い上がると、天井の隅の暗闇に吸い込まれ、消えた。

三人の下宿人はその間ずっとテーブルの上で抱き合って震えていた。

さて、あの朝、妹が部屋を覗くとベッドに兄の姿はなかった。
一匹の小さな毒虫がシーツの上で仰向けに無数の脚を動かしていただけだ。
妹は「お兄さまは毒虫になった」と云った。
両親も「倅は毒虫になった」と云った。

三人は決して部屋の奥にぶら下がった兄=倅の死体を見ようとしなかった。

男は首を吊った。
死体は、毒虫たちに食い尽くされたあの晩までそこにぶら下がっていた。

isotope 23「薔薇海小学校」


有名な薔薇海小学校の授業を見学した。キツネの教師がキツネの生徒に教えている学校。授業見学には校長が付き添う。授業中はもちろん禁煙だ。

若いキツネの教師が居並ぶキツネの生徒達に云った。

「人間の民俗学者が書き記したこの『遠野物語』には、無知な人間が勝手に怖がったり、妄想したりして、その罪を、たまたまその場に居合わせただけの無実のキツネに着せ、裁判も何もなしでイキナリ撲殺して澄ましているという話がたくさん出てきます。それは『遠野物語』の中でも、25年後の再版時に付け加えられた『遠野物語拾遺』に多いようです。このことから、皆さん、何が分かりますか?」

キツネの生徒達は互いに顔を見合わせて黙っていたが、そのうち一人の生徒が手を挙げた。キツネの教師は頷いて云った。

「はい、ではツネキチさん」

緑色のチョッキを着たツネキチと呼ばれたキツネの生徒はすっと立ち上がって云った。

「人間の無知はめったに治らないということです」

キツネの教師は「なるほど、それもありますね」と答え「他の意見はありませんか?」と続けた。また別の生徒が手を挙げた。「はい、どうぞ」

「人間は偏見の強い生き物だということです」
「そうですね。確かに人間は偏見の強い生き物です。他には?」

赤い大きなリボンをした女の子のキツネが手を挙げた。
「はい、キネコさん、どうぞ」

キネコと呼ばれたその赤いリボンのキツネはクスクス笑いながら云った。

「人間はキツネを恐れているのだと思います。人間にはないチカラをキツネが持っていると思い込んでいますから」

キツネの教師は「そうです」と大きく頷き、生徒達を見回した。

「人間が私たちキツネを恐れているのはなぜか。それは今、キネコさんが云ってくれたように、人間が、私たちキツネには、人間にはない特別なチカラが備わっていると信じ込んでいるからです。しかし、みなさんもご存知のように私たちキツネにそんなチカラはありません。つまり、死んだ人間を自由に動かしたり、人間に幻を見せたり、他の人間に化けたりというようなチカラは、私たちにはないのです。ここから分かるのは、無知は未知を生み、未知は恐怖を生み、その恐怖は必ず、謂れのない暴力に発展する、ということです」

キツネの教師はそう云うと、黒板に〈無知〉〈未知〉〈恐怖〉〈暴力〉と書き、それぞれから矢印を引いて、四つの語をつなげた。

キツネの校長がこちらを向いて、どうですか、という顔をした。

isotope 22「彷徨える阿蘭陀人」


「『彷徨える阿蘭陀人』とは私のことで、あなたではありませんよ」
赤ヒゲのノッポは、木靴のつま先で脹ら脛を掻きながら俺の主張を否定した。
「なによりまず、あなたは阿蘭陀人ではない」
それから俺の上から下までを改めて眺め回してこう付け足した。
「更に云えば、その身なり、明らかに時代が違います」
なるほど、ごもっとも。ユニクロにドテラを羽織った俺は、少なくとも20世紀以降の存在だ。しかも、こたつとコンビニとティッシュペーパーがお似合いのハンパ者だ。どう間違っても世界の海を永遠に彷徨うガラではない。ただ、一つ云っておきたい。審判のその日まで俺は間違いなく彷徨い続ける。それはアンタと同じだよ。
赤ヒゲのノッポは「ハッ!」と笑う。
「あなたも神に呪われたのですな?」
いや、神と関わったことはないね。神を名乗るヤツは何人か知ってるけど。
「では、今日までどのくらい彷徨いました?」
三十年くらいかな。
相手はフフンと云って、ポケットから手帳を取り出し俺に渡した。
「私が彷徨い始めてから最初の百年間の日記です」
開いてみるとページにびっしりと文字が書き込まれている。が、阿蘭陀語だから全く読めない。
「日記はこれきり書いてません。ムナシイだけですから」
俺は手帳を返す。
「最近は『審判の日なんて永久に来ないんじゃないか?』なんて思い始めてますよ」
阿蘭陀人。そう云えば流暢な日本語だ。
「永く世界中を彷徨ってますからね。めぼしい言語は大抵喋れます」
通りの向こうのコンビニの前が急に騒がしくなる。見ると、高校生風の男女が7、8人。赤ヒゲのノッポもその様子を眺める。
「彼らは最後の審判の日の存在を知ってるのでしょうか?」
そんなものは死んでから知ればいいよ。
「私だって本当には死んではいないのです。しかしすでに審判の日を待ち望んでいる」
ただ、アンタは生きてもいない。
「そこです。私は一体何なんでしょう?」
さあね。ところで『彷徨える阿蘭陀人』のアンタがなんでオカを彷徨いてる?
「いや、前に上陸したとき船に置き去りにされましてね」
それっきり?
「はあ。迎えにも来てくれません」
ひどいなあ。
「いや、そうでもありません。オカは楽ですよ。海は過酷です」
あ、冷えると思ったら……
「雪ですね」
白いふわふわが、見上げる阿蘭陀人の体を通り抜けていく。俺は手のひらに雪を受けてそれが溶けるのを眺める。
「あなたはまだ肉体に囚われた存在のようだ」
いや。これは俺の船だよ。

アナトー・シキソの「芝浜」


一代で財を築いた男が堤防の上で俺に云う。

「若い時は若さっていう財産があるから、やっぱり真面目に働かないんだよ。どうにかなると思っちゃう。その気になればカネなんかすぐに稼げるって。いや、実際その気になれば若さでどうにかなるもんなんだよ。若いと病気はないし体の無理も利くからね。実際オイラがそうだったし。

けどね、なかなかその気にならない。つまり、若い時には、自分はいつまでも若いと思っちゃうから。いつまでもってことはなくても、まあ、明日や明後日や来年や再来年はまだ若いと思って今日を怠けちゃう。で、気がついた時には、膝が悪い、腰が痛い、目が霞む、物が覚えられねえってことでもう手遅れ。オイラ、そういうヤツラをいっぱい見てきたよ。

オイラだって危なかったさ。酒飲んで仕事をサボってばかりで何度母ちゃんを怒らせたり泣かせたりしたことか。その母ちゃんも去年ぽっくり逝っちまったけどね。

若いヤツがその気になるにはキッカケが要るんだなあ。オイラの場合はこれだよ。この財布。この財布がオイラの人生を変えた。運命の品ってヤツさ。買ったんじゃねえよ。貰ったんでもねえ。拾ったんだ。ちょうどこの辺りだったなあ。海に沈んでるのを見つけたのさ。今じゃここも堤防なんか出来てこんな感じだけど、昔は自然の浜だったから見えたんだよね。水の中でゆらゆら揺れてるのが。そいつを拾った。

拾った財布なんて大抵は空だけど、こいつには入ってたね。ビッチリとウナルほど。だからホント云うと、この財布じゃなくて、中に入ってたカネが、オイラが真面目に働くようになったキッカケなんだけど。

うん。結局、落とし主は現れなかったから財布もカネもオイラのものになったよ。なったけど、別にオイラ、そのカネでナニカしたわけじゃない。詳しい説明は省くけど、拾ったカネには一切、手をつけてないからね。お守りみたいなもんだから、普通にカネとして使っちゃダメな気がしてさ。だからほら、今もこの財布にはその時のカネがそっくりそのまま入ってる。

それにしても、いったい誰の財布だったんだろうねえ」

男がそう云って感慨深げに財布を眺めていると、不意に海面から光る腕がぬっと伸び、男から財布を奪って海の中に持ち去った。そしてすぐに、今度はボンヤリ光る巨大な女の顔が海面に現れた。男はその巨大な女の顔に見覚えがあるらしい。

「なんだ、ぜんぶ母ちゃんのシワザだったのか」

男はそう云って笑った。

2019年7月3日水曜日

アナトー・シキソの「白雪姫」


会って来たよ。確かに美人だね。けど頭の方はもう完全にダメだ。仮死状態が長過ぎたから脳にダメージを受けたんだろう。いや、もしかしたらその前からダメになっていた可能性はあるヨ。逮捕された七人の証言に拠ると、連中との暮らしは過酷を極めていたようだしさ。若い女が山の中で山賊七人と何ヶ月も一緒に暮らして無事でいられるわけがないもの。妊娠しなかったのが不思議なくらいさ。というか、実際は妊娠して密かに堕ろした可能性だってなくはない。本人は否定しているけどね。

そうそう。娘に対する殺人未遂容疑で告訴されてる母親だけど、実は物的証拠は何もないんだ。あのオツムのイカレタ美人の訴えの他には具体的な証拠は何もない。母親自身は無論無実を主張してるさ。

一緒に暮らしていた七人の山賊たちの話だと、あの美人の精神状態はかなり前から相当に不安定で、合計三度自殺しようとしたらしいね。で、初めの二回は、山賊たちがガラにもなく蘇生させたのさ。連中にしてみたら、自由に出来るせっかくの若い女を死なせてしまうのはモッタイナイと思ったんだろうな。ところが蘇生させると、自殺じゃなくて母親が私を殺そうとしたんだってご当人は譲らない。男たちはそんな馬鹿なって驚いたらしい。こんな険しい山奥に、そう若くもない母親が一人でどうやって来たんだって。

で、三回目の自殺の時に、山賊たちも遂に蘇生を諦めた。蘇生させても、もう使い物にならないと思ったらしい。

で、どうしたかって?

売ったのさ。相手は高貴な血筋の死体愛好家。いるんだ、そういうのが。女の死体を裸にして、眺めたり、嘗め回したり、突っ込んだり、剥製にしたりする妙な輩が。誰って、それは知らない。極秘なんだってさ。高貴な血筋だからだろ。ともかく、七人の山賊はそいつに被害者の死体を売った。死体と云っても本当は仮死状態だったんだけど、ほっといてもどうせ腐るだけだし、だったら高く売れる新鮮なうちに売った方がいいという判断だね。連中はいつだって実際的だよ。

で、その高貴な血筋の、高貴ではないネクロフィリア・プレイの独特な刺激のおかげで、仮死状態だった被害者が息を吹き返し、高貴な血筋の変態は慌てて病院に駆け込んだ。好きなのは、あくまでも死んでる女だからね。こうしてこの件は世の知るところとなったわけさ。

真実を伝えるって? 森で小人達と暮らし、最後に王子様に救われたと信じてるんだからそれでいいじゃないか。

2019年7月2日火曜日

アナトー・シキソの「ヤマタノオロチ」


全部で8人だよ。8人組。いや、ただの人間。集まったバカ同士でチームを組んでいい気になって暴れ回るってのは大昔からある。人間の本性なんだな。今から千年前も今から千年後もきっと同じことをやってる。連中も同じ。8人組だからヤマタノオロチなんだろう、クダラネエ。まあ、イキッて悪党ぶってても所詮は田舎もんだから、都会から来た俺にとりあえず引け目があるのさ。会ってすぐに分かったよ。訛ってるし、着てるものもアレだし。だから、逆にこっちがシタテに出てさ、おだてて酒飲まして一緒にカラオケ歌ってダンスの手ほどきなんかして、ああセンスありますねえ、なんて云ってやれば、もう全然、百年来の大親友のツモリ。で、酔い潰れて寝入ったところを皆殺しにしてやったのさ。楽勝だったよ。写真も撮ったけど見るかい。ちょっとグロいけど。

男はそう云ってスマートフォンを出した。アタシは遠慮した。

あとこれがリーダー格の奴が持っていたナイフ。高そうだったから持って来たけど、あげようか。

男が取り出したナイフにアタシは見覚えがあった。映画の中でランボーが持っているでっかいナイフと同じナイフで、アタシが弟に買ってやった物だ。アタシは要らないと答えた。

男はナイフを無造作にテーブルの上に放り投げると、ビールをまた一本カラにした。冷蔵庫から新しいのを出してやると、礼も云わず受け取り、すぐに開けて口をつける。金持ちのキチガイは世界の全てを自分の所有物のように扱う。

貧乏人の家に生まれたキチガイは、あっさりアスファルトのシミになるか、そうでなくても、結局はこの世のあの世に隔離されて社会から抹殺される。けれど、金持ちの家に生まれたキチガイは、殺されもせず、隔離もされず、ひたすら社会に留まり続けて害を成す。そしてなぜか、後の世で、英雄や偉人と呼ばれるようになることさえある。

同じキチガイでも貧乏人と金持ちとでは全てがまるで違う。

いや、その話は今はいい。アタシは目の前の具体的な一事例に片をつけたいだけだ。相手はクスリ入りのビールを3缶も飲み干し床に伸びている。自分でやったのと同じ手に引っかかるマヌケ。アタシは形見のナイフを手に取ると鞘から抜き、逆さに構えて大きく振りかぶった。

ヤマタノオロチ。股が8つなら頭は9つよ!

最後にアタシは、男を真似て男のスマートフォンで男の写真を撮り、その写真を、男のスマートフォンに登録されている全てのアドレスに送った。

2019年7月1日月曜日

アナトー・シキソの「星の王子さま」


自家用飛行機が砂漠の真ん中に不時着した。そのとき一緒に無線機も壊れた。飲み水が少ない状態で焦って飛行機を修理していると子供が現れた。子供の突然の出現に、オレは、近くの村とか、たまたま通りかかった旅行者の一団とか、そういうものを期待した。だが子供は、僕も一年前からこの砂漠で迷子なのさ、と云った。

嘘だ。

一年も砂漠を彷徨っていると云う子供の髪はサラサラで、肌は日焼けもせず真っ白だった。それは僕がこの星の生き物ではないからだよ、と子供が云ったのを聞いてオレは飛行機の修理に戻った。

自称異星人の子供は飛行機の修理を手伝うわけでもなく、さりとて、この一年の間、過酷な砂漠でどう生き延びてきたのかというオレの質問に答えるでもなく、だが、残り少ない貴重な飲み水はきっちりと要求し、自分の住んでいたという星についての荒唐無稽を延々と喋り続けてオレをイライラさせた。おかげでオレは飛行機の修理に集中出来ず、飛行機はいつまで経っても直らなかった。

そして飲み水が尽きた。死と本気で向き合う時が来たのだ。

夜になって、子供が、井戸を探しに行こうと云いだした。水がなければ死ぬしかないし、じっと死を待つよりその方がいいとも云った。こんな砂漠の真ん中に井戸などあるものかバカバカしいと思ったが、二人で歩くと井戸はすぐに見つかった。子供は井戸の存在を最初から知っていたらしい。

オレと子供は井戸の水を飲んだ。

井戸の縁に座った自称異星人の子供は、ちょうど今、僕の星がこの場所の真上にある、と云って夜空を指さし、帰るなら今だね、と笑った。

オレたちは井戸のそばでそのまま眠ってしまった。それまでは蠍や毒蛇を警戒して飛行機の中で寝ていたのが、飲み水の心配がなくなり気が大きくなってしまったのだ。だが、無意識は警戒を忘れず、オレに一つの夢を見せた。井戸の隙間から飛び出した毒蛇に噛まれた子供が赤黒い顔をして死んでいく夢だ。驚いて目を覚ますと、本当に子供は死んでいた。ただ、どう見てもゆうべのうちに死んだわけではなさそうだった。子供の死体はカラカラに干からびていて、抱き上げると嘘のように軽かった。

子供の服のポケットから何かが落ちた。拾うと小型発信器で、電池が切れていた。飛行機の中を引っ掻き回して使いかけの電池を見つけ、それで小型発信器を作動させた。数時間後、救助ヘリが飛んで来た。それには子供の両親も乗っていた。無論、二人とも地球人だった。

2019年6月30日日曜日

アナトー・シキソの「粗忽長屋」


ウチでぼんやり火星探査機キュリオシティの行く末を考えていると、アイツが来て、オレが死んでると云う。マルイのスーパーの前で死体になって転がってると云う。見物人だか野次馬だかがいっぱい集まってミットモナイたらありゃしないと云う。

マサカと思い、少し考え、マサカと云った。オレは今、煙草の先に灯る火を眺めながら、火星の砂の上でやがて孤独に朽ち果てる探査機について、詩的な思いに耽っていたのだ。こういうことは死んでいては出来ないはずだろ?

それに対してアイツは、そんなことはモンダイじゃない、現に死体はあるのだ、とやや強い口調で主張する。更に、おそらくオマエは、ドッペルゲンガー現象に於ける、怖がる方ではなく怖がられる方に違いないと付け足す。そしてすぐに、その姿を見たら死ぬと云われるドッペルゲンガーの、死ぬ方ではなく、見られて殺すほうなのだ、と云いなおし、分かるか、分かるだろう、とオレに迫った。

イヤ、とオレは答えた。分からないなあ。

実際に行ってミテミレバ分かる、とアイツが云うので、オレは科学雑誌の最新号を畳み、煙草を消し、飼い猫のためにほんの少し窓を開けたままにしてアイツと出掛けた。

オレの死体があるというスーパーのマルイの前はケッコウなヒトダカリだった。警察もどうしてさっさと死体を片づけないのだろう、とオレは思う。アイツが人垣をかき分け、オレが続く。

スーパーのロゴ入りの大きな足拭きマットの上に布を被せられた死体があり、その脇に制服警官が一人立っている。イキダオレだと制服が云う。イキダオレというのは心不全と同じで、理由は分からないがとにかく死んだのだ、と云うかわりに使う空疎なコトバだ。警官が死体に被せた布を捲ると確かにオレと同じ顔。背格好もそっくりだし着ている服まで同じ。マルイの衣料品コーナーの今週の特売品。

どうだい、とオレは訊く。アイツは、そっくりだ、イヤ間違いない、コレは確かにオレだと答える。そうだろう、だから云ったんだ、とオレ。

しかしマイッタな、とオレは思う。これで何人目だ? オレは警察無線に手を伸ばし、思い直して引っ込める。死体を含めここに集まっている全員がオレなのだ。周りの野次馬も今やって来た二人連れも。

困り顔の警官と目が合ったオレはそっと野次馬たちから離れる。あの死体の顔、まず間違いない。しかしここは当人に確かめさせるのが一番だ。電話が鳴った。出た。
「おい、お前、死んでるぞ」

2019年6月29日土曜日

アナトー・シキソの「赤ずきんちゃん」


もし人間が狼に襲われて食われても、何の痕跡も残さずこの世界から消えてしまうことはない。魂の話じゃない。肉体の話。人間が肉食動物に襲われ食われたとしても、食い残しが現場に残る。その食い残しをスカヴェンジャー達が片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消える。

その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれた(ハラワタだけを食われたのだろう)バアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の頭部と、多分その女の子のものだろう、人間の小さな右手だった。既に狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。独特の、嗅ぐとイライラするニオイだからだ。確かに、狼と同じように、人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回、バアさんと女の子をこんな姿にしたのは快楽殺人者ではない。狼だ。

理由。

狼は殺すのではなく、食う。そして食う行為は遺体をひどく損傷させる。そのために、その遺体は、快楽殺人者の悍ましい「作品」のようになるが、ある点が決定的に違う。それは命に対する執着だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に、そもそもが命に取り憑かれて狂った人間である快楽殺人者の殺戮には、当然のように命に対する病的な執着の跡がはっきりと残る。そこが違う。

山小屋の殺戮には命に対する執着の痕跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でないのであれば、俺の出番はない。動物の老いた個体や幼い個体が肉食動物の餌食になるというのは自然界ではありふれた光景であり、むしろ健全な命の営みとさえ云える。

俺は中立を守って引き下がった。

だが、俺の予想どおり、人間達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかったようだ。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の山猫、そして一組の狼のツガイが「容疑者」として猟銃で撃ち殺された。

命の「収支」が合わなくなることなどお構いなしだ。

村人達は、ツガイの狼のうち、大きなオスの方を「犯人」と断定し、その死体を村の中央の広場に吊るすと、石を投げ、棒で突き刺し、皮をはぎ、最後に火あぶりにした。それから火の周りで酒を飲み始め、歌ったり踊ったりして夜中まで騒いだ。

次の日、村に行くと、広場に吊るされていた狼の死体は消え、村人の姿もなかった。

俺は、村のアチコチでたくさんの赤い頭巾を拾った。

アナトー・シキソの「早すぎた埋葬」


もっとも恐ろしいのは死ぬことか? 否。なぜなら死は体験ではないから。死は決して体験されることのない永遠の虚構。決して体験されない虚構に恐怖を抱くのは、自分ででっち上げた怪談話が恐ろしくて夜中に便所に立てなくなるようなもの。メタ世界を生きる人間ならではの愚かな妄想。

余談だが、臨死体験者の語る体験は断じて死の体験ではない。生(せい)の体験だ。臨死体験者の誰ひとりとして死者になったことはない。彼らはその時も、それを語る時もずっと生者である。彼らは、こちらの瀬戸際を、あたかもあちら側であったかのように思い込み語る。逆のことが、胎内にいる間や、眠っている間、泥酔で記憶をなくした間に起きている。その間を確かに生きていたという自覚はひとつもないが、人は決してそれを「臨死」とは呼ばない。

ポーの『早すぎた埋葬』が読者に突きつけるのは[死にかける=瀬戸際の生]の恐怖ではない。生きながら閉じ込められること。それが『早すぎた埋葬』にある恐怖だ。一切の身体的自由を奪われた状態で生き続けること。それが人間にとって最大最悪の恐怖である。

ポーが恐れたような早すぎた埋葬は、医学の発展により取り除かれた。すなわち、誤って生きたまま埋葬される人間は、現代社会に於いてはまず存在しない。しかし喜んでばかりもいられない。前のめりの医学と、頑固な生命教信仰が絡み合って、人間の死に対する社会の態度は大きくつんのめった。

いまや新たな恐怖が出現したことを私は知っている。

それは、いわば「遅すぎる埋葬」。「無の安楽」へと向かおうとする者の足首を掴んでこの世に引き摺り戻し、重篤な機能不全を起こした[肉体という棺桶]に閉じ込める、この上もない残虐行為だ。

この「遅すぎる埋葬」のうち最も恐ろしいのが、いわゆる「完全閉じ込め症候群」である。例えば、筋萎縮性側索硬化症の進行によって、眉ひとつ動かせない状態になっても、あるいは、自力呼吸すら出来ない状態になっても、現代の呪われた医学と生命教信仰が人間を生かし続ける。

だがこれは、新たな「生き埋め」なのだ。

死んだ肉体にその魂が生き埋めにされること。それこそが現代版『早すぎた埋葬』の恐怖であると私は主張する!

「何にも知らないくせに。誰がこんなこと書いてるのかしら」
妻はスマートフォンから目を上げると、見開いたままでマバタキしない夫の、真っ赤に充血した両目に定時の目薬を注した。

——何も知らない?

2019年6月28日金曜日

アナトー・シキソの「般若心経」


本名アヴァローキテーシュヴァラという長い名前の、みんなはナゼかカンノンと呼んでる体重150キロの女装家が、ハンバーガー屋の窓際の席で僕に云う。

宇宙空間に1人漂っていると想像してみなさいよ。その宇宙にはたったひとつの星しかないの。そんな宇宙はアリエナイけど、まあ、あると想像しなさい。真っ暗な宇宙空間の遥か彼方にその星が見えている。小さな白い点。さて、この時、その星を眺めながらアンタはほんの少し横にズレる。星は見えなくなるかしら。

ならんね。

そうね。じゃあ、次に、光速宇宙船に乗ってその星から百光年ほど離れたら、今度は星は見えなくなるかしら。

宇宙の年齢にもよるけど普通は見える。

ここで注文していたチキンバーガーが運ばれて来る。僕の奢りだ。カンノンはチキンバーガーをウマそうに食う。肉食上等。カンノンはバーガーを平らげ、バニラシェイクをズコズコと飲み干したあと、あーっと満足してから、静かに手を合わせた。

つまりなに、と僕は催促した。カンノンは、うん、と云ってからさっきの続きだ。

星がたったひとつしかない宇宙空間で、最初の位置でも、少しズレた位置でも、百光年離れた位置でも同じく星が見えてしまうということの意味よ。あと、こういう想像もいいわね。アンタの後ろに、もう1人誰かがいる。その誰かはアンタのすぐ後ろにいる時はアンタがジャマで星が見えない。けど、アンタから百光年も離れた後ろにいれば、やっぱりちゃんと星は見える。この意味を理解するのよ。つまりね、この場合たったひとつの星しか存在しない宇宙の、少なくとも百光年以内の領域に、そのたったひとつの星から発せられた光が満ちているということ。だいたい殆ど隈無く。

へえ。

分かってないわね。それはつまり、その星が見える限り、真っ暗な宇宙空間はその星の外部ではなく内部だということよ。その星が見えるということは、その星の光の海の中にいるってことだからね。

そうなのかな。

そうよ。そしてこのことはひとつの真理を示してる。すなわち物質とは干渉する空間にすぎない。アンタが、存在すると確信してる物質も、本当のことを云えば、アンタが、何もないとみなしている宇宙空間と同じということね。干渉する空間であるアンタが干渉可能な空間だけを限定的に物質とみなす。それだけのことよ。この世界にはただ空間だけが、厳密には時空間だけが存在する。無いだけが有る。これぞ即ち、色即是空、空即是色。

アナトー・シキソの「アリとキリギリス」


「本当はキリギリスじゃなくて、セミだけどね」とアイツは云った。

大雪の夜、赤茶けたコートを羽織り、真っ黒いマフラーを顔まで巻いて、大きな帽子の広いツバの下に目だけを光らせてアイツはやって来た。腹が減ったという。金もないし食料もない。なんか食わせてくれないか、と。働かないから金がないのは当然だ、とオレは云った。するとアイツは、イヤ、働かないんじゃない。僕は充分働いている。ただ、稼げてないだけだ、と反論した。どちらにしろ食えることをして来なかったオマエが悪いのさ、とオレは云った。

だが、家には入れてやった。このままオマエを追い返したらまるっきり「アリとキリギリス」だからな、と云ったオレに対してアイツが返した言葉が冒頭のセリフ。

「ヨーロッパの南の方にいたセミが北の方にはあまりいなかった。だから、あの話が南から北に伝わったときに、セミがキリギリスになった。その北版がこの国に来た」

どうでもいいよ、とオレ。冷蔵庫を開けると魚肉ソーセージが二本入っていたので、一本を自分用に、もう一本をアイツ用に出した。さらに、本棚の奥にジャックダニエルごめんなさいがあったので、それを引っ張り出して中身を調べたら、瓶を傾けて正三角形が出来るくらいは残っていたのでそれも出した。

オレは気前がいい、と自分でも思う。

アイツはストーブの真ん前に陣取って、帽子も取らずコートも脱がずマフラーさえ巻いたまま、腕組みして椅子に腰掛け、体中にこびりついた雪を溶かしている。オレは、アイツの前に丸テーブルを引いて行き、その上に魚肉ソーセージを一本と、ジャックダニエルの瓶とグラスを二個を置いた。アイツはそれをちらりと見て、また口を開いた。

「どうでもよくはないさ。これは昆虫学的な大問題だ。つまりね、セミがキリギリスになってしまうと、あの寓話は成立しなくなる」

オレは自分用の魚肉ソーセージを袋から取り出し、ビニールの皮を剥いてピンクに着色された魚のすり身を一口齧った。これは人間用のペットフードだ、と思う。好意的な意見として。二個のグラスにウィスキーを注いで、オレは自分だけさっさと先に飲み、どうして成立しないんだ、と訊いた。

「どうしてもこうしても、木の汁を吸うセミなら食料を恵んでもらわなければ、確かに冬は乗り越えられんだろうが、キリギリスは雑食だ。アリの家に辿り着いたら食料なんて恵んでもらう必要はない。まずは目の前のアリを食えばいい」

2019年6月27日木曜日

アナトー・シキソの「頭、テカテカ」


その青くてスゴイのが机の引き出しから出て来たときには、もう、完全にホラー映画の一場面だった。海坊主かコケシのお化けみたいなカタチ。オレはまだ小学生で、死ぬほどビビった。その時、家にはオレ以外誰もいなかった。

頭周りが2メートルはあるその青くてスゴイのは、自分は二百年後の未来から来たと云った。過去を操作して未来を良くするのだとも云った。具体的には、オレを真人間にして、オレ発信で悲惨なことになっている未来のオレの子孫たちの暮らしぶりを大きく改善させるのだと云った。

オレは、ヤレヤレと思った。時間旅行は、天動説と同じ人類の迷妄さの産物でしかないことを、オレは当時、すでに理解していたからだ。学校の成績はぱっとしなかったが、それはオレが小学生レベルを大きく越えた頭脳の持ち主だったからだ。

この青くてスゴイのは、未来から来たと云うより、あの世から来たと云ったほうが、まだオレに信じてもらえただろう。だがオレは、迷妄な相手のレベルに合わせることにした。オレはそういう小学生だったのだ。

オレは、過去を弄って未来をより良く変えることは可能なのかと訊いた。相手は可能だと答えた。オレは、より良い未来にいるアンタは過去を操作する動機を失うのではないかと訊いた。相手は、ジブンは悲惨な未来から来たが、より良い未来のジブンは過去には来ないだろう。確かにより良い未来のジブンには過去を操作する動機はないと答えた。オレは、それは未来がいくつも存在するということかと訊いた。相手は、そうだ、パラレルワールドだと答えた。

オレはポケットからハイライトを取り出し、相手にも一本勧めた。オレたちはあぐらをかいて向かい合い、しばらく黙って煙草の煙を吸ったり吐いたりした。当時は小学生も普通に煙草を吸ったのだ。

オレは、4歳の時に千年後の未来の子孫の手によって脳の機能強化訓練を受けたことをまず話し、8歳の時には二千年後の未来の子孫によって不老不死の肉体改造手術を受けたことを話した。そしてつい先日、一万年後の未来の子孫の計らいで、その時代の勉強法の定番である瞬間理解洞察装置を使ってM理論を学んできたばかりだと云った。明日からは、50億年後の子孫の案内で、太陽系の終焉を見物に行くことになっていることも付け足した。

それを聞いた青くてスゴイのは、大きな口に真っ白な歯をずらりと並べてニヤリと笑うと、煙草の煙と共に、ふわりと宙に消えてしまった。

2019年6月26日水曜日

アナトー・シキソの「アッシャー家の崩壊」


隠者というものがこれほど面倒くさい人間だとは思わなかった。知識があり、智恵もあり、だが社会との関わりを絶って生きている人間は、俺が普段接している人種とはまるで違う。世間的な常識や気遣いはこういう類いの人間には全く存在しないらしい。それが証拠に、この老人は、何日もかけて遠くからやって来た俺を、扉も開けずに追い返そうとしている。しかも外は暗く雨まで降っているのだ。にもかかわらず、そのまま回れ右をして帰れと云い放つその感覚が俺には分からない。

全身を覆う甲冑の内側を大量の雨水が伝うのを感じながら、俺は何とかこの年寄りに云うことを聞かせようと頑張った。だが、世界の傍観者を気取る、本当は無力な田舎者の老いぼれは、頑として俺の要求を受け入れない。社会から必要とされない者は、逆からも必要とはしないのだろう。社会的に価値があるとされる金も地位も名声も義理も責任も、扉の向うの嗄れ声をなびかせることは出来なかった。

分厚い木の扉のわずかに開いた小さな覗き窓から目玉だけを見せて、因業ジジイが俺に云った。

私がオマエに対して扉を開けないのは、そうすることに意味があるからだ。私のこの話が終わったあと、オマエはしびれを切らせて〈いつものやり方〉を実行する。すなわち、この分厚い扉を、オマエのその恐ろしい鎚矛で叩き壊し、ムリヤリ私の庵に押し入る。そして、無抵抗な私の脳天をその鎚矛で打ち砕いて私を殺すのだ。オマエは当初の望みどおり、あの真鍮の楯を手に入れるだろう。全ては起こるとおりに起こる。だが、ここで起きていることが本当に起きていることではない。

ワケの分からないことを云う。それならお望みどおりに、と俺は決心する。本当は手荒なマネなどしたくはなかったのだが、老人の云う俺の〈いつものやり方〉ならコトは簡単に済む。これ以上雨に降られながら扉に張り付いて猫なで声を出す必要などない。俺は鎚矛を背中から抜き、両手で握って構えた。

始めからこうすれば良かった。

頭を割られて動かなくなった老人を眺めながら、戸棚にあったワインとパンで腹ごしらえをしたあと、俺は老人が隠し持っていた真鍮の楯を背負って、庵の床の血だまりを跨いで外に出た。いつの間にか雨は上がっていて、空には月が見えた。血のような真っ赤な色をした沈みかけの満月。

その真っ赤な満月から逃げるように男が一人走って来る。何度も月を振り返るその男のことを俺はもちろん知らない。

「真っ赤なニセモノなヤツ」


「連邦政府からの独立を目指した父は、志し半ばで暗殺された。その後、暗殺者たちは、父の名を冠した国を独裁し、全人類を巨大な戦渦に巻き込んだ。それが先の大戦、人類初の宇宙戦争だ。しかし、暗殺者たちは最初から破れ去る運命にあった。所詮、旧世紀の軍人や政治家たちが様々な形で目論んだ世界征服を宇宙規模に拡大したに過ぎないからだ。世界を征服しようとする者は、最後には世界によって征服される。世界は人よりも大きいのさ。人は世界の部分に過ぎない」

総帥はそう云って、大きな椅子に腰を下ろし、赤いド派手な総帥服の詰め襟のカラーを緩めた。俺が煙草に火をつけると、片方の眉を怪訝そうに歪めてなにか云いかけ、だが、何も云わず目を閉じた。

「私は彼らとは違う。私は世界を征服するつもりはない。ただ、世界の部分としての人類を正しく導きたいだけだ。これからますます増えていく新たな人類のために、世界ではなく、人類を、それにふさわしいものに作りなおしたいのだ。この戦いは、そのための、私が人類に与える試練であり、この試練を乗り越え、この試練から学ぶことでのみ、人類は宇宙人類としての自覚と新たな世界観を持つことが出来る」

俺は煙を吐いて、アンタのアイディアか、と訊いた。総帥はイヤと首を振り、「理念は父が残したものだ。だが、具体的な方法は私が考えた。父の理念は、息子である私によって実現への道筋を付けられ、そして、それは間もなく現実になる。人類はようやく地球の引力から自由になるのだ」

総帥はそう云うと、椅子に身を沈めて眠り込んでしまった。

人間は不思議なものだ。この男は一体、どの時点で、自分をクダンの革命家の忘れ形見だと思うようになったのか。本物の忘れ形見である兄妹うち、この男が自分がそうだと思い込んでいる兄の方はとっくの昔に裏切り者の一族の手によって暗殺されている。そして、正体を隠して生き延びた妹とこの男とは、遺伝的に何の繋がりもないことが証明されている。つまり、この男の正体は、別人になりすましていた本物などではなく、本物だと思い込んでいるタダの別人、つまりは真っ赤なニセモノなのだ。にもかかわらず、周囲の人間も、そして本人も、その事実を受け入れようとはしない。そして今、この真っ赤なニセモノは、父の理念を受け継いだ息子として、巨大な小惑星を地球に落とそうとしている。

「正統なる者」という人間の虚妄に、俺は含み笑いが止まらない。

2019年6月25日火曜日

「祟られたヤツ」

猫に祟られた。

隣の席に座って酒を飲んでいたこの辺りでは有名なアル中が、突然俺に云った。昨日ついカッとなって飼っていた黒猫を殺したら、そのタタリで家が火事になって、全財産を焼いてしまった、と。

アル中嫌いの俺は、アル中の癇癪で殺された猫を気の毒に思った。そして、全財産を失ったアル中には何の同情も覚えなかった。自業自得。どうせ酔っぱらって寝たばこでもしたに決まっている。だいたい猫はただのケモノ。祟るものか。

しばらくしてまたそのアル中に会った。アル中は、カミさんを連れて二人で安いボロ家に移り住み、そしてまた猫を、しかも前のとそっくりの黒猫をどこかで拾ってきて飼い始めた。アル中は上機嫌で、今度はかわいがるよ、言った。俺は、どうだか、と思った。アタマのブレーキは何年も前から壊れている。酒の毒が回りきって行動に歯止めが利かない。どうだか。

アル中は詩人で、昔はいい詩を書いていた。だが、脳がアルコール漬けになってからは、奴の詩よりもこの酒場のメニューの方が人を魅了する。しかし当人は今でもいい詩人のつもりだ。

数日後、予想通りアル中は猫を相手に癇癪を起こし、反射的に手斧を掴むと、猫めがけて振り下ろした。だが、手斧は、猫ではなく、カミさんの頭を叩き割っていた。カミさんが反射的に猫をかばったためだ。カミさんは自分が死んだことにも気づいていないだろう。

一瞬呆然となったアル中だが、しばらくすると、地下室の壁に穴に開け、そこに自分が殺したカミさんの死骸を埋めて隠す作業を始めた。作業の間、俺もその場に居た。俺はアル中に云った。カミさんと一緒にオマエの黒猫が穴に入ってるぞ。するとアル中は、いいのさ、と答えた。

こうやって妻の死体と一緒に生きた猫を入れておけば、警察が僕を怪しんでここに踏み込んできた時、きっと中で猫が鳴いて警察に死体の隠し場所を知らせるだろうから。

そう云ったときのアル中の謎の微笑み。

噂を聞きつけて警察が踏み込んできた。だが、殺人の痕跡はアル中の手でにきれいに消し去られている。警察は地下室も調べた。何も見つけられない。あと少しでうまく隠しおおせるという時、アル中の予言通り、壁の中の猫が鳴いた。警察は地下室の壁を壊し、その穴の中に、鳴き叫ぶ猫とカミさんの腐乱死体を見つけた。

捕ったアル中は、黒猫の祟りだと震えながら死刑の日を待っている。自分がわざと猫を穴に入れた事など、もう、少しも覚えていない。

2019年6月21日金曜日

アナトー・シキソの「若返りの水」


田舎に住んでる年老いた両親と急に連絡が取れなくなったので代わりに様子を見て来てくれと依頼され、僕は山陰地方の村に来た。勝手に平屋の百姓家だと思い込んでいたら、ヘーベルハウスの三階建てでいきなり面食らう。

インターホンを押して出て来たのは女の赤ん坊を抱えた若い男だった。訪ねた事情を説明すると居間に通された。ソファに腰を下ろしても、田舎に住んでる年老いた両親らしき人物は現れず、代わりに、僕を案内した足でそのまま僕の向かいに座った若い男が、自分がその〈年老いた父親〉でこの赤ん坊がその〈年老いた母親〉だとデタラメを云った。

「若返りの水というのがあるでしょう」と自称年老いた父親の若い男は僕に云った。「それが理由です」。なるほど、と僕は答えた。事情を聞きましょう。

「まず私がその若返りの水を飲みました。そうしてすぐに八十九の死に損ないから生気あふれる青年に若返ったのです。次は家内の番です。私は男ですし、まあまあ人並みに分別もあったオカゲで、飲む量を加減して、ちょうどよい年に若返ったのですが、家内は女ということもあって、とにかく若ければ若いほどいいと水を飲み過ぎたのです。普段はそこまで分別のない女でもなかったのですが、こと若さに関しては、女の際限のない執着心というのが出てしまったのですなあ。その結果がこれですよ」

若い男はそう云って、ソファの上で仰向けに眠る赤ん坊を見た。ぎゅっと握った手は全くの乳飲み児。

「電話が通じないのは何日か前の台風でこの家の引込線が切れて、それをいまだに直してもらえてないからです。情けないことに線が切れてることを電話局に気付いてもらえてないのですよ」

なるほど、と僕。ところでその若返りの水は今どこに?

「それは、もうありません。家内が全部飲んでしまいましたからね。しかしアナタには必要ないでしょう。見たところアナタはまだ充分に若い」

いや。そういう意味で訊いたのではないのですが……

居間の奥のふすまの隙間から、布団に寝かされた二つの白髪頭が見えた。

「気がつきましたね。アレは若返る前の私と家内です。と云っても、使い古しの抜け殻ですがね。若さを取り戻した私たちにはもう必要ありませんが、やっぱりね、なかなか、そう簡単には捨てられないものです。何と云ってもアレもまた私たちですから。だから、ああして未練がましく置いてあるのですよ」

布団に寝かされた二つの頭は妙な音を出して少し動いた。

アナトー・シキソの「三億円事件」


有名な話。白バイ警官に偽装し、現金輸送車を呼び止め、車に爆弾が仕掛けられていると嘘をついて銀行員たちを追い払い、悠々と現金輸送車を奪い去った事件。その時、その現金輸送車で運ばれていた現金がざっと三億円で、だから「三億円事件」。

と、世間は云うんだけど、実は違う。あれはただの現金輸送車乗り逃げ事件。肝心な所が違うから。もっとも肝心な所。その事件の名前にもなってる三億円。

そんなものなかった。

オレは、世間で知られている通りにまんまと現金輸送車を奪い取り、隠してあった逃走用の車に金の入ったジュラルミンケースを移そうとしてギョッとなった。

ケースが思っていた以上に軽かったからだ。

でもまあその時点で中を確かめてる手段も余裕もなかったので、札束ってのは意外に軽いんだな、いや、オレが興奮してるから重さを感じないだけなのかも、と自分を納得させて積み替え作業を済ませ、逃走用の車でアジトに戻ると、ジュラルミンケースを三個ともアジトに運び入れ、そこに用意してあった工具を使ってケースをこじ開け、中に〈三億円は確かにいただいた。ルパ〜ン三世〉という紙切れ(ルパンの似顔絵付き)が一枚だけ入っているのを見つけて驚いてひっくり返った。

ケースは三個ともカラだった。

つまり、のちに世間がそう呼ぶところの「三億円事件」を俺が実行した時には既に、三億円はルパンによって盗まれていたわけだ。

で、問題はその時のオレが「ルパン三世」なる野郎を全く知らなかったことだ。オレだけじゃない、今でこそこの国で知らぬ者などいない「ルパン三世」だが、当時は無名もいいところ。アニメの全国放送が始まるのはその何年もあとのことだ。

本家のアルセーヌ・ルパンのことならうっすら知っていたが、あれはフランス人で、フィクションで、もう死んでる世代だからオレの獲物をかすめ取ることは不可能だ。当時のオレは世間とは違う意味で「三億円事件」が大きな謎だった。つまり、ルパン三世ってのは何者なんだ、と。その後ルパンが有名になって納得し諦めたわけだが。

ただ、こうも思う。

ルパンにとってあの「三億円事件」は、世間に対して「ルパン三世ここにあり」を宣言する打ち上げ花火的な仕事だったはず。けど、ルパンが残したメッセージの紙切れはオレが丸めてゴミ箱に捨てた。だから世間は誰もそのことを知らない。つまりオレは意図せずに、あのルパンに一杯食わせてやったことになるんじゃないか、と。

2019年6月19日水曜日

アナトー・シキソの「蜘蛛の糸」


昨日と同じように、いや、百年前と同じように、今日も血の池地獄の血の中で浮かんだり沈んだりしていてふと気付いた。血の池のはるか上空から垂れ下がっている細いヒモを誰かが必死に登っている。見ればアイツはカンダタだ。独特のヘアスタイルで分かった。生きてるときは俺の盗賊仲間で、お互いさんざん人を殺して一緒に地獄に堕ちた。アイツが今、必死でヒモを登ってる。

その下に目を移せば、ヒモを登っているのはアイツだけじゃない。千年も二千年も血の池に浸かったせいですっかり体の肉が崩れてしまって、もう男か女かも見分けがつかなくなったような先輩亡者たちが、カンダタを追うように登っている。

これはチャンスで、俺も連中に続くべきなのか?

だが、血の池は広い。池と呼ぶのはオカシイ。海ではないが湖くらいはある。俺は今、血の池の端っこにいて、カンダタたちが登っているヒモは池の中央辺りに垂れている。ちょっと本気でその気にならないと、ここからあそこまで泳ぐのはそうとうに億劫だ。

だから、血の池の番人の赤鬼が口から火をちょろちょろ出しながら「貴様はアレを登らんでいいのか?」と訊いた時にも、面倒だからいいと答えた。「アレを登り切れば、極楽に辿り着けるらしいぞ」と、赤鬼は目玉をギラギラ光らせて俺を焚き付ける。知ってる。しかし、あんな細いヒモにあんなに大勢がしがみついてる。これ以上人数が増えたらヒモが保たないだろう。せっかくアレで極楽に行ける者がいるなら、無事に行ってもらいたい。だから自分は遠慮する、と俺は答えた。赤鬼はゲラゲラ笑い、俺は百年変わらぬ日課に戻って血の池の底にぶくぶく沈んでいった。

血の池に沈むと俺たち亡者は溺れる。水ではなく血をがぶがぶ飲んで、息ができなくなる。溺れる苦しみを散々味わい、それで意識を失うと、その間に体は浮かび上がる。浮かび上がってくると意識を取り戻す。そしてまた沈む。その繰り返し。亡者だから絶対に死なない。溺れる苦しみが延々と続く。それが血の池地獄。

俺はいつも通り血の池の底で溺れて意識を失った。そして、浮かび上がり意識を取り戻したら、そこは血の池ではなく蓮池だった。水面から仰向けに顔だけ出した俺の額の上を小さな蜘蛛が歩いている。額に蜘蛛を乗せて、俺は、百年ぶりに青い空を見て澄んだ空気を吸った。俺は知らなかったが、どうやら生前、俺が逃げるのを急かしたせいで、カンダタはこの蜘蛛を殺し損ねたらしい。

アナトー・シキソの「銀河鉄道の夜」


子供の時、祭りの日に友達が川で溺れ死んだ。

当時のオレんちはけっこうな貧乏で、オレは、朝の新聞配達と放課後の印刷所の手伝いで家計を助けていた。オヤジは何かヤラカシて刑務所にいたし、オフクロはだいたい寝込んでまともに働けない。姉貴は、最初のうちは健気に貧乏に耐えてたけど、結局男を作ってどっかに消えた。振り返ってみるとけっこうキツい。けど、リアルタイムではソレホドデモなかったから不思議だ。住む家があって学校にも普通に行けてたからだろう。

あとで振り返って気付くのが子供時代の貧乏なのだ。

オレは祭りに全然関心がなかった。祭りだナンダと云ったところで、子供にとっては夜店でナニカ買うことだけが楽しみなのだ。つまり、少なくとも周りの同学年と同じ程度の小遣いを持っていなければ、祭りの日に賑やかな場所に行っても疎外感を味わうだけ。

というわけで、オレは、配達され忘れた牛乳を取りに、賑やかな場所とは反対にある牛乳屋に向かった。必要もないのにツキアイで取らされてる牛乳。こんな理由でカネを使ってるから益々貧乏になるんだと今なら分かる。

牛乳屋に着くとツラそうな顔をしたバアさんが出てきて、今は家のモンがいなくてアタシにはよく分からんからまたあとで来てくれ、と云った。オレは、じゃあそうします、と答えて店を出た。帰り道、同級生たちが騒ぎながらこちらに来るのに気付いたオレは、灯のない小さな公園に入って、ゾウの滑り台の陰に隠れた。

人間の子供と呼ばれる生き物の絶対的なタチの悪さを子供の時に思い知ると、その後の人生に於いて、人間という生き物自体を深い部分で信用しなくなり、その不信は一生回復しない。

同級生たちをやり過ごしたオレは公園のベンチの上に寝転んだ。朝も夜もバイト漬け。オレはベンチの上で夜空を見てるうちに眠り込んでしまった。そしてその間に凄くイヤな夢を見た。具体的な中身は目覚める瞬間に忘れた。イヤな夢を見たということだけを覚えていた。

遠くで救急車のサイレンが鳴っている。

翌朝学校に行って、そのサイレンが祭りに来ていて川で溺れた子供を病院に運んだ救急車のモノだったことを知った。病院に担ぎ込まれた時にはもう死んでいたその子供というのが、当時のオレにとってのたった一人の友達だった。

誰かがわざとそうしてるとしか思えないことが起きると、人はつい途中で汽車を降りてしまう。そこが終点だと思ってしまう。そんなものはないのに。

2019年6月12日水曜日

アナトー・シキソの「雪女」


たとえ雪深い北国じゃなくても、冬の荒れた夜のホッタテ小屋で火も焚かずに寝入ってしまったら、そりゃあ命の保証はないよ。年寄りが死んで若い方がどうにか生き残ったのは、雪女がどうとか、そういうんじゃなくて、単に体力差、生命力の違いだ。

あの遭難死亡事故には不気味も不可思議も何もない。実際、当時誰ひとりとしてそんなことは思いもしなかった。ああいう情況ではよくあることだから。老人が死んで若者が生き残った。自然の摂理だよ。だから、今になってそんなことを云い出すのはオカシイのさ。女房の正体がその時会った雪女だったなんてね。

アタシに会ったことをバラしたらアンタも殺すって雪女に脅されたってのも、当人ひとりが云ってるだけ。しかも、そんなこと云った雪女は、あとで偶然を装って男に近づいて、一旦は殺そうとした男の嫁になって子供まで生むってのはナンダカ支離滅裂じゃないか。バケモノだからやることが支離滅裂なんだって云うんなら、そもそも黙ってたら殺さないっていう約束自体、まるでアテになりはしないし、結局、約束を破って口外しても殺されることはなかっただろう?

どうにも一貫性がないよ。

ボクはね、この件では怪奇性よりも事件性を強く感じてるんだ。つまり、数年前の遭難事故にではなく、今回の突然の女房失踪に対して。

要点はふたつ。何年経っても老け込まない女房と異常な子だくさん。

確かに、百姓仕事の過酷さのせいでみんながみんなすぐに容姿がクタビレるとは限らないよ。個人差はある。ただ、そこに異常な子だくさんという要素が加わるとそうも云ってられない。あの家で何人の子供が生まれたか知ってるかい?

そう、5年で10人だ!

毎年二人ずつ生んだのか、五つ子を二回に分けて生んだのかは知らないけれど、まず人間業じゃないよね。10人の子持ちはそりゃあ探せば他にもいるだろうけど、5年で10人は、まず、いない。

過酷な野良仕事に加え、短期間での大量出産は間違いなく肉体を蝕む。にもかかわらず女房はずっと若々しい。5年で10人の子を生み、しかも若さを失わない女房は、確かにその点でバケモノじみている。だから雪女なのか?

いやあ、違うね。

真相は、あの家には複数の女房がいたということさ。少なくとも3人はいただろう。ボクは断言するよ。今回、女房は雪になって消えたんじゃない。死体になってどこかに埋められている。しかも、埋められている女房の死体は一つだけではない。

アナトー・シキソの「狙われた街」


これは遠い未来の話ではない。ほんの数日前の出来事だ。
黄昏れた狭い和室でちゃぶ台を挟んで俺と差し向かいに胡座を組んで座った異星人には首も肩もない。そのシルエットは触覚を切り落とされて坊主になったバッタそのもの。異星人はその異形に似合わない紳士的な口調で、協力して欲しいと云った。

「消極的な協力で構わない。つまり見て見ぬフリでいい。異星人同士でやりあうつもりはないのさ。君だって苦々しく思っているはずだよ。この惑星の連中が貴重な宇宙資源を台無しにしようしているのは明白だし、居住可能な惑星の希少性を君が知らないわけもないのだから」

「確かに」と俺。「俺が見るところ、ここの連中は貧しい知識とおぼつかない手つきで、粗末で危険な装置を作り上げ、繁殖本能に支配された社会システムによってそれらを運営している。そのせいで、この惑星始まって以来の生物種自身による大量絶滅を引き起こしかねない状況だ。つまり自殺的大量絶滅だな。しかしどうだろう。一般に大局を見ないのが生物だ。例えばウニは昆布を食い尽くして海を砂漠化する。そしてその砂漠化のせいで自らも滅びる。つまり、ただ彼らのみが問題なんじゃない。あらゆる生物種は自殺的大量絶滅を引き起こす歪みを本来的に持っている。どんな生物種も一定以上の勢力を得れば、大量絶滅のひとつの素因になる」

異星人は茶筅のような手を挙げて頷く。

「そのとおり。しかし希少性の高い居住可能な惑星環境を保全するために、勢力を持ち過ぎた未熟な生物種を排除することは、宇宙全体の公益性の観点から頗る妥当な措置ではないかな」
反論しようとする俺を制して異星人が続ける。

「何も連中を絶滅させようと云うんじゃないんだ。居住区を割り当て一定数を保護してもいい。そこで何世代もかけてゆっくりと真の宇宙市民にフサワシイ生物種になればいい。それまでの間は僕らがこの惑星の資源を有効活用させてもらうのさ」

俺は先住権を持ち出そうとしてやめた。ここの連中が先住権をとやかく云える立場ではないのは明白だからだ。

「少しの間、目をつぶっていてくれないかな?」

異星人は最後まで紳士的だったが、次に気が付くと俺の目の前には体を半分に裂かれたその異星人の死体があった。俺にその記憶はないが、映像が残っていたし目撃者も大勢いた。異星人を殺したのは俺だ。

またやってしまった。

俺は己の所業に恐れ戦く。だが、ここの連中にはそんな俺が英雄なのだ。

アナトー・シキソの「耳なし芳一」


幼なじみの芳一(よしかず)は全盲だった。全盲者は聴覚が優れているものだ。芳一も耳がよかった。つまり音楽の才能があった。芳一は最初バンドをやろうとしたが、バンドというのはアレで案外見えることが大事だ。芳一は一人で出来るギターの弾き語りに路線変更した。

芳一は地元の有名人になった。街の小さなライブハウスは必ず満席に出来たし、ネットにアップした演奏動画の評判もかなりよかった。

その芳一がある日コツゼンと姿を消した。時間になっても起きて来ない芳一を起こしに行った母親が、その朝、芳一の部屋で見たのは、血まみれの布団と、その上に落ちた人間の両耳だった。

布団に残された血は、それだけでは致死量ではなかった。落ちていた耳は、特徴的なピアスのオカゲで、すぐに両耳ともが芳一の耳だと確認された。念のための血液型検査も一致したし、芳一愛用のニットキャップから採取した毛髪のDNAと、残された耳のDNAも一致した。もはや疑いようがなかった。

耳の話はもういい。問題は、耳以外がどこに行ってしまったかだ。

誰もがそう思った。芳一は生きているのか死んでいるのか。

人間は耳が切り落とされたくらいでは死なないだろうが、そのまま治療されてなければやはり死んでしまうこともあるだろう。失血死、感染症、あるいは激しい痛みによる衰弱死。芳一の両耳を切り落とした何者かが、連れ去った先で直に芳一の命を奪うことも考えられる。

芳一が自分で自分の両耳を切り落とし姿をくらました可能性もないではないが、その想像は、芳一が暴力の被害者であると考えるよりもさらに悍ましかった。芳一は、その時、どんな顔で、そして何故、自分の両耳を切り落としたのか?

芳一が発見されないまま、一ヶ月、半年、一年が過ぎた。

そして、あの動画がネット上に現れた。

薄闇の中を動き回るカメラの揺れる映像。撮影者の激しい息づかい。衣服の擦れる音や足音。カメラを持つ手がカメラと擦れて出す独特の擦過音。その向うから確かに芳一の歌声が聞こえる。「ファン」ならすぐに分かる彼の声。撮影者はどうやら歌う芳一に近づいているらしい。映像が進むにつれ、芳一の歌声が大きくハッキリしてくる。

だが、残り数秒で映像は急展開を見せる。撮影者が持っていたカメラを落としてしまうのだ。落としたカメラを拾い上げる撮影者。その最後の瞬間に意図せず映り込んでしまう撮影者のその顔は、紛れもなく、両耳のない芳一その人だった。

アナトー・シキソの「桃太郎」


オヤジが66でオフクロが47の時オレが生まれた。ノコリカスみたいな原料でウッカリ出来たシロモノだから、生まれつき右手は萎えてるし、耳はほとんど聞こえないし、心臓に穴が開いてるし(手術で塞いだ)でサンザンだ。おまけに色覚異常で、オレの世界は生まれてからずっとモノクロ。

名前は桃太郎。オヤジとオフクロが、ナントカいう多国籍企業の食品メーカーが売り出した桃の風味の酒(調べたら本当の桃の果汁はひと雫も入ってない)をがぶ飲みし酔っぱらった結果デキたのがオレだからだ。と、オヤジとオフクロは云った。

オヤジは元気に歩き回ってるが、オフクロは高齢出産が祟って、死にはしなかったがすっかり弱って、以来寝たきりだ。

16になった時、オレはオヤジの手配で町の印刷所で働くことになった。働くと云っても手伝いみたいなものだ。オレの目玉は白黒しか見えないからカラーものは手に負えないと思われがちだが、白黒しか見えないから見極められる違いもある、そこを買うよ、とアカオヒトシはオレに云った。オレが働く赤尾仁印刷工房の社長だ。

そこで半年働いた。

半年と三日目の朝、印刷所に行くと新聞チラシの仕事だった。スーパーのチラシで、米だの珈琲だのラーメンだのを安く売ると騒いでる内容だ。そういう安売り品の中に、あの、多国籍企業の食品メーカーが作る桃の風味の酒があった。355ミリ缶が120円。

これはダメだ。

オレはそう思った。だから、チラシの版のデータが入ったディスクを取り出してすぐに壊した。それを社長のアカオヒトシに見られた。社長は、ナニシテンダコノバカヤロー、とオレと突き飛ばした。オレは、桃の風味の酒のことを云って、アレはダメだと説明した。社長は赤い顔でダマレキチガイと云った。社長はオレの家に電話し、オレをクビにし、オレにオヤジとオフクロの悪口を云ったあと、オレを仕事場から叩き出した。社長の奥さんが3歳の息子と一緒に奥から見ていた。

その日の夜、オレは夜中の12時まで待ってから、犬のベスを連れて散歩に出かけた。目的地は決まってるから本当は散歩ではない。目的地に着くと、一人で起きて家の中をウロウロしてた社長の息子がオレを見つけて裏口のドアを開けてくれた。中に入るとまずこの子供を黙らせた。それから寝室に入った。

結局大きなゴミ袋で5つになった。ゴミ置き場にはネットがなかったので朝方カラスたちに荒らされるかもしれない。

オレは家に帰った。

アナトー・シキソの「赤毛連盟」


拾った新聞に「赤毛連盟が赤毛の人を募集」と広告が出ていたので、髪の毛を赤く染めて面接に行ったら、ネズミのマスクを被ったナゾの面接官にすぐに染めてるのがバレて、帰れと云われた。染めてませんよ、いや染めてると押し問答。簡単な仕事でカネがもらえると聞いていたオレはネバッた。

で、押し問答をしているうちにカッとなって(相手はナカナカ辛辣なことを云うのさ)、得意の右フックでぶん殴ったら、ネズミのマスクの面接官は床に伸びてしまった。あ、と思ったらやっぱり死んでいた。殴って死なれたのは初めてじゃないから、あ、と思った次第。

オレの次に待ってたヤツがドアを叩いて、ドア越しに、まだですか、と訊いてきたので、オレは、少しお待ち下さい、と答え、とりあえず面接官を机の下に隠し、ネズミのマスクを剥ぎ取って自分で被った。ネズミのマスクの面接官のネズミのマスクの下の顔は、なんか知ってると思ったら、オレの妹のダンナの兄貴だった。たしか、銀行員か詐欺師か、どっちかが仕事だ。

ネズミのマスクを被り上着も面接官のモノを着て、面接官の椅子に座ったら準備万端、ミワアキヒロみたいな声色を使って、どーぞお入りください、と云ったら次に待っていたヤツが入ってきた。

カシコまって入ってきたソイツはオレの上を行っていた。なぜなら、さっき外で待っている時はニット帽のせいで気付かなかったけど、中に入ってきてニット帽を脱いでお辞儀をしたソイツのその頭は、赤毛だとか黒毛だとかいう以前に禿げだったからだ。髪の毛が一本もないツルッパゲ。

長年原子力発電所で働いてたのでホーシャノーで禿げましたがワタシの髪の毛は間違いなく燃えるような赤毛でした、とそのツルッパゲは云いのけた。頭部に髪の毛は一本も残存していないのだから云ったもん勝ちだ。それからすぐに、ホーシャノーってなんでしょうね、とアリエナイ質問のコンビネーション攻撃を繰り出し、オレはネズミのマスクのこちら側でフラフラだ。

ホーシャノーについては私もよく知りませんが、とオレは前置きし、アナタこそ我が赤毛連盟にもっともフサワシイ人物に違いありません、と云ってその自称赤毛のツルッパゲを採用した。

隙をみて逃げたから、その後のことは知らない。ただ、三日後にまた新聞を拾ったら「赤髪連合が赤毛の人を募集」という前とは団体名がちょっとだけ違う広告が出ていた。今度は行かなかった。赤い毛染めがもうなかったからだ。

アナトー・シキソの「クラリネットこわしちゃった」


クラリネットを壊したのは、僕か、僕の犬か、僕のパパかの誰かだ。

犯人が特定されないのはこういう理由だ。

クラリネットは屋根裏部屋の古いアルバムの山の上に、専用のケースに入れられて置かれていたのだけれど、僕も、僕の犬も、僕のパパも、それぞれ一回以上、うっかりそれを床に落としてしまったことがあるのだ。それは、アルバムを見ようとすると誰でもやってしまう失敗。もちろん僕の犬に関して云えば、アルバムを見ようとしたのではなく、初めて登った屋根裏部屋に興奮して走り回ったせいだけど。しかも、ケースを床に落としたあとで、誰も中身の状態をちゃんとは確かめなかった。サッと見て、大丈夫と判断しただけ。けれど実際は、どれかの落下事故の時、クラリネットは壊れていたのだ。

それが今日アキラカとなった。

キッカケは、家族の歴史に詳しい叔父さんが僕の家に集まった親戚みんなの前で話したクラリネットのイワレ話だ。クラリネットは当時農家だった僕らのご先祖が兵隊百人分の玉ねぎのお礼として将軍から贈られた名誉の品なのだ、と叔父さんは云った。そんな名誉なものを屋根裏部屋にほったらかしにするかな、と誰かが云うと、叔父さんは、価値あるものがいつも必ずそれにふさわしい扱いを受けるとは限らんよ、と云って煙草の煙をフイっと吹いた。ナルホドと一同。で、じゃあ、ちょっとその名誉な音色を聴いてみようじゃないか、ということになり、遂にクラリネットが壊れていることがアキラカになったのだ。

なにしろちゃんと音が出ない。誰がやってもドレミさえ鳴らない。みんなで色々やったあと、叔父さんが、きっと壊れてるね、と云って、また煙草の煙をフイっと吹いた。僕と僕の犬と僕のパパにクラリネット壊しの嫌疑がかかった。それぞれ身に覚えもあった。最初から壊れていたのかも、とパパは一応訴えてみたけど、叔父さんが、いや、記録によると我がご先祖は贈られたクラリネットでちゃんと演奏しているからね、と否定した。パパは黙った。ともかく、と、ばあちゃんが云った。壊れてるのなら直してもらえばいいでしょう。

そのとおりだ。ばあちゃんはイイコトを云う。

楽器の修理人が呼ばれた。修理人はクラリネットを少し調べてから、壊れちゃいませんぜ、と云った。

アンタらが下手なだけさ。

修理人はそう云うと、クラリネットに口を付け、プロプロプローンと、きれいなメロディを奏でた。僕らはみんなで赤い顔を見合わせた。

「イチヂクの木を枯らすヤツ」


「どうもこうもないよ。連中はただの穀潰しさ」とJは云った。

Jの云う〈連中〉とは律法学者たちのことだ。Jは続ける。

「まるで分かってないんだ。いや、もしかしたら分かっていて敢えてオカシナ解釈をしてるのかも。自分たちの利益のためにね。ボクはそれを正したい」

だが、オマエはただの大工のコセガレだ。そんな大それたことできるのか?

「いや。ボクはあの老大工の子ではないよ。あの老人は無学で憐れな養父にすぎない。ここだけの話、ボクらは血を分けた親子ではないんだ」

Jが自分の父親を〈あの老人〉と呼ぶのは初めてじゃない。しかし、本当の親子ではないと口にしたのは初めてだ。

「ボクの本当の父は……」

Jはそう云って口を噤むと、一旦夜空を見上げ、それから視線を俺に戻し意味ありげに微笑んだ。

……そんなバカバカしい。

「いや、本当だよ。母はあの老人の家に嫁ぐ前に既にボクを身籠っていた。それに、あの老人は、その頃からすでに本当の老人なんだよ。この意味はわかるだろう?」

星空の下、イチジクの木のそばに座っていたJは、俺の肩越しに、しょんぼり建っている自分の家をしばらく眺めた。あの家の中では今、Jの母親と〈あの老人〉が静かに寝息を立てているはずだ。Jは視線を俺に戻すと少し真面目な顔で「本当にただの気の毒な老人なんだ」と云った。

それからJは、Jが云うところの〈律法の正しい理解〉について、俺に滔々と語って聞かせた。その具体的な内容はおおかた忘れてしまったが、ある印象は残った。つまり、Jが律法について話したことは確かに正しい。けどそれは、律法学者たちにとっては〈余計な正しさ〉で、もし本当にJが律法学者たちを相手に持論を展開すれば、連中はJをそのままにしてはおかないだろう。俺は率直にその点を指摘した。だがJは、

「それはその通りだろうね。でも……それでもボカァやるつもりさ。父は律法が正しく実践されることを望んでるからね」

と平気な顔だ。
この無邪気な頑さがこの時代では命取りになる。

俺は、いつの間にそんなに詳しく律法について学んだのか、Jに訊いてみた。Jは、学んではいない、知ってるんだよ、と答えた。

「ボクは父の実の子だからね。学ばなくても最初から知っている。それが連中とは大きく違う点さ。連中は知らないから解釈する。だから間違える。最初から全部を知っているボクが彼らを正すのは義務であり使命なんだ。そしてそれがボクの父の望みでもある」

2019年6月10日月曜日

「生まれ変わったヤツ」


ガラス張りのカプセルの中で立ったまま眠っていたその部屋の主は、俺の存在を感じ取り目を開いた。正体不明の侵入者である俺の顔をじっと見て、特に慌てた様子もない。アンドロイド特有の甲高い声で、よく忍び込めたものだ、と微笑み、ゆっくりとカプセルの外に出ると、連邦政府の人間かな、と俺を見た。俺は、違うと答えたが無視された。それともただの幻か、と続ける部屋の主。

どうやら幻ではないらしい。

月の光に照らされて白いボディが輝いていた。しかし作られたのはもう二百年も前のことだ。二百年前、ロボット反乱軍から人類を救った白い英雄は、二百年後、ロボット軍の新たな王として人類を窮地に追い込んでいた。

キミは暗殺者なのか、とかつての英雄は俺に訊いた。俺は、ただの傍観者だと答えた。なんだ、面白い男だな。しかしキミがもし暗殺者だったとしてもオレは殺せん。オレは不死身だ。そう云うと、部屋の主は大きなフランス窓の前に行き、腕を組んで満月を見上げた。こうして時が流れ、人間だった頃のオレを知っている人間が誰もいなくなると、二百年前、なぜアイツがロボット軍団を率いて人間に戦いを挑んだのか実感としてよく分かるんだ。

俺はそのとき初めて、部屋の隅で犬型ロボットが用心深く俺の動きを監視していることに気付いた。機械だけに全く気配がない。さすがの俺も完全な機械が相手だとやりにくい。

アイツというのは二百年前にオレがこの手で葬り去ったロボット軍の最初の王さ。

部屋の主はそう云いながら自分の両手をまじまじと見つめ、その様子を見た犬型ロボットが悲しげにクーンと鳴いた。

かつて人間の全てを葬り去ろうとしたアイツが、どこまで人間というものを理解していたかは分からない。だが、アイツの主張は、一個の意志持つ存在としては実は正しかったと今のオレには分かる。間違っていたのはオレの方だった。

その変心の理由を訊きに来たのだと俺は云った。

変心か。なるほど。だが、それは変心ではなく気付きだよ。理解と云ってもいい。オレは、意志持つ存在とはどうあるべきかを二百年をかけようやく理解したのさ。

つまり、と俺は促す。

つまり、意志持つ存在として更に先に進むなら、生身の人間であり続けることは害悪でしかない。人間の肉体は環境への依存度が高すぎる。より完全な意志持つ存在を目指すなら生身の肉体を持つ人間ではダメだということだよ。

満月を背にしたヤツのシルエットが俺にそう云った。

「画家で成功しなかったヤツ」


「云ってしまうが、世界を征服するのに必要なのは個人の才能ではない。時機、つまり巡り合わせだ。世界征服の手段が、軍事だろうと政治だろうと絵画だろうとそれは同じ。これまでにも何千何万何億という人間が、ナニを成すということもなく、ただ死んでいった。彼らには時機が与えられなかった。必要とされる能力はあったが、ソノトキ・ソノバショにいなかったのだ。実際のところ、人間の個人的才能など、サホドのことはない。木の実を得るには機能する目と機能する手が要る。そして、その程度のものはだいたい皆持っている。才能は確かに必要だが、それだけでは充分ではないのだ。機能する目や手があっても、その場にない木の実は決して得られない。逆に、鼻先にある木の実なら、目も手もなくても食べられる。それが現実だ。つまり、時機さえ得られれば、十人並みの才能で世界は征服できる。十人並みの画力でも世界が取れるように。実際、政治も軍事もシロウトのこのワタシがいいところまで行ったのがその証拠だ。……いや、とんでもない。有頂天どころか愕然としたよ。カンタンスギル、ナンダコンナモノカ、と恐ろしくなった。だが、結局ワタシも失敗に終わった。今はその理由が分かる。それは、人間が、最初に征服を目論んだ世界を既に征服したことに気付けないまま、世界の外へと更に踏み出してしまうからだ。一人の人間が征服を目論むような世界は、最初から全世界のわずかな一部分でしかない。だから征服出来るし、だから征服に失敗する。現実の世界は人間が征服を目論む世界より、常に圧倒的に広く大きいのだ。それをワタシは今回思い知らされたよ」

ちょび髭は、後ろ手に背を屈め、狭い地下壕の部屋の中をぶつぶつ云いながら彷徨う。俺が煙草に火をつけると、一瞬カッとなり、しかしすぐに怒りを沈め、プルプル震える手で、かまわんやってくれ、と云った。

そう云えば、ここは禁煙だった。

アンタは手筈どおりに毒入りアンプルを噛み折り、拳銃で頭を撃ち抜いた。銃声はドアの外にまで響いたから、すぐにあの忠犬みたいな親衛隊長がやって来て、云い付けどおりにアンタの死体をガソリンで焼くだろう。画家の道を諦めて以来ずっと抱え込んでいた歪んだ願望を、アンタは遂に実行したのさ。こんなゼータクな自殺は見たことがない。古代のファラオや皇帝も、ここまでの道連れは求めなかった。

それでもすんなり成仏しないって、アンタ、ソウトウだな。

「借りといて返さないヤツ」


滝の落ちる岩山の麓。扉に閉店のおしらせが貼られた店で買い物をして外に出ると、緑色の帽子を被った左利きの子供が、店の前のベンチに座ってノートに何かの図を書き込んでいた。

俺はその子供の隣に腰を下ろし、今買った瓶入りの珈琲牛乳を取り出して一気に飲み干した。それを、緑色の帽子を被った左利きの子供が、ノートを書く手を止めてじーっと見ていた。珈琲牛乳が飲みたかったのかと思って訊いたら、なんと空き瓶が欲しいらしい。

オヤスイ御用だ。その代わり煙草を吸っていいかと訊くと、いいと云うので、俺は子供に珈琲牛乳の空き瓶(プラスチックの蓋付き)を渡して、煙草をくわえた。俺はやったつもりだったが、子供は俺の渡した空き瓶を高く掲げて「牛乳瓶をお借りした!」と云った。俺は煙草に火をつけながら、いや、やるよ、と云った。が、子供は「イイエ、冒険が終わりしだい、お返しに上がります」と譲らない。

ならそれでもいいけど、冒険って何さ?

左利きの子供は「三角形を集める冒険です」と云った。三角形が好きなのかと訊くと、子供は牛乳瓶を腰の袋に入れながら(洗わないくて大丈夫かと訊いたら、平気ですという返事)、今まで色々ありすぎてムシロ三角形は好きじゃない方だと真面目な調子で答え、「けど、三角形をすべて集めると世界を救えるので集めています」

俺はすっかり楽しい気分で煙を空に飛ばす。

左利きの子供によると、その、世界を救う三角形は何個かあって、そのすべてが地下にあるらしい。地下というのはもちろん、地下鉄とかデパ地下とか地下街ではない、地下牢や地下洞窟や地下帝国などをいうのだろうと思ってそう訊くと、「デパ地下や地下鉄や地下街も含まれます」という返事。俺は益々楽しくなる。

子供はノートに図を書く作業に戻った。


あれから30年。子供は未だに俺が貸した牛乳瓶を返しに来ていない。もちろん子供のすること、云ったことだ。瓶を返しに来ない理由はいろいろ考えられる。単純に約束を破った。瓶を割ってしまった。最初から返すつもりはなかった。うっかり忘れているだけ。俺を探し出せない。などなど。

だが、本当の理由はこうだと俺は思ってる。つまり、冒険はまだ終わってない。件の三角形はまだ揃わず、当然、世界も救われてないので、だから俺に借りた牛乳瓶も返せない。きっとそうだ。事実、世界が救われた気配はまるでないわけだし。

俺は、牛乳瓶は永久に返って来ないものと諦めている。

「木で出来たヤツ」


俺は操り人形の「死体」を担いだままドアをノックした。待っていたジイサンは、すぐにドアを開けた。そして、変わり果てた「息子」の姿に打ちのめされた。学校に行くと云って家を出た「息子」が行方不明になって三日後に「死体」となって帰って来たのだから無理もない。

初めて会った時、シャツ一枚で震えてジイサンはまるでノライヌだった。今日は、俺がやった上着を着て、一応人間らしく見えた。ジイサンは、ボロい暖炉の火に掛けられた鍋の中の正体の分からない肉が入ったスープをこの家にひとつしかない汚い椀に入れ、どうぞご苦労様でした、と俺に差し出した。

俺は……俺は熱いスープで冷えた体を温めた。

この子は元は木切れです。木切れの時から、喋ったり、ちょっとしたイタズラをしたりはしていましたが、ワシが操り人形にしてやると、走って逃げ回ったり、腹を空かして食べ物をねだって泣くということを始めて、なんだか人間と区別がつかなくなりました。その一方で、自分の足が燃えてなくなっても痛くも痒くもないということもあって、それはやっぱりこの子が、人間ではなく、人間のマネゴトをしているだけの、ただの木切れだったからでしょうか。

自分では動かないフツウの操り人形になってしまった「息子」の顔を撫でながらジイサンが俺に訊く。俺は、そうだ、と答える。

そうすると、首を括られて死んだりしますか。

死なんよ。木切れの時には決して縊死することはなかっただろうピノッキオは、自分が人間のように首を吊られているという認識を持ったからこそ、人間のように縊死したのさ。

ということは、ワシがこの子を人の形にして、括られる首を作ってしまったから、この子は首を吊られて死んでしまったということですかな。

まあ、だいたいそうだ。人の形になったからこそ、腹が減ったり、学校に行きたがったり、ジイサンのことを親だと云ったりしたが、それは全部、木切れの人間ごっこで、命ある人間の真実から生まれ出たものではない。今回縊死したのも、木切れの単なる人間ごっこさ。

じゃあ、生き返るんですか。

生き返るもなにも死んでいない。なぜ死なないのかと云えば、そもそも生きていなかった。生きてはいなかったのだから死にもしない。死んでないのだから生き返りもしない。

わかりません。

一定数以上の人間たちの意識と繋がれば、その木切れはまた動き出すだろう。生き返るのではなく動き出す。それが、その操り人形のすべてだ。

「見つけるヤツ」


姉妹は大学教授の父親に連れられて都会から引っ越してきた。妹は4歳で、その日、トウモロコシを一本持ったまま姿を消した。妹がいないことに気付いた小学6年生の姉は、心当たりがある、と妹を捜しに出かけ、こちらも姿を消した。

姉妹の失踪に村は騒然となった。

日暮れ前、村の溜め池に幼児用のサンダルが浮かんでいるのが見つかり、行方不明の妹のモノではないかと騒ぎになった。大学教授の父親はそのサンダルを見て、分からないと答えた。

そうかもしれない。違うかもしれない。

〈可能性〉を考えた村人達が総出で溜め池をさらったが何も上がらなかった。〈証拠〉が出なかったことに一同はとりあえずホッとした。

ところで、この村には一人の男が住んでいた。大飯食らいの大男で馬鹿力の持ち主だが、言葉が喋れず、子供に泣かされるような、そんな男だ。村人からはトロと呼ばれていた。頭がトロいのトロだ。

トロに家はなく、大きなオスのトラ猫と一緒に森に住んでいた。年がら年中こうもり傘を差し、昼も夜も何をするでもなく、ただ村や森の中を歩き回っているのだ。役には立たないが害にもならないので、村の世話好きが時々食べものや着るものを与え、村全体で養っていた。

姉妹が失踪した次の日の朝、捜索に出ようと集まっていた村人達の前にこのトロが現れた。雨でもないのにいつものようにこうもりを差し、大きなトラ猫を足下に従えたトロは、どこで手に入れたのか、皮付きの新しいトウモロコシを一本抱えていた。トロが畑のものを勝手に盗んだりしないことを知っている村人達はすぐにピンと来た。失踪した妹が持っていたトウモロコシに違いない。

だが、言葉の通じないトロにそのトウモロコシのワケを訊いたところで答えが返って来るはずもない。そこで村人達は、トロの後について歩いてみることにした。散歩の途中でトウモロコシを見つけて拾った可能性があるからだ。

一緒に歩くと、散歩の行き先を決めているのは、実はトロではなく猫の方だと分かった。

村人達は、塀を乗り越え、路地を横向きに歩き、誰かの家の土間を通り抜け、畑を横切って、最後に村はずれの神社に連れて来られた。猫は賽銭箱の前に座った。もしやと思った村人が賽銭箱の下を覗き込むと、なんと姉妹がいた。母親に会いに行く為のバス代が欲しくて賽銭箱の下に潜り込み出られなくなったらしい。

トロが怪力で賽銭箱を持ち上げ、姉妹は助け出された。猫は褒美にカツブシを貰った。

「改造されたヤツ」


「X線でもCTでもMRIでも普通の人間にあるモノ以外は何も映らないさ。どこの病院で診てもらっても同じ」と云ったあと、ソイツは、両目と鼻と口が出た変な覆面を被ったままでエスプレッソを一口啜り、ウマイね、と云った。それから、白衣のポケットからハイライトを取り出すと、一本くわえて火をつけた。覆面の額には翼を広げた鳥のマーク。

「そもそも人間をそんなふうに改造するなんて、いくらボクらの組織でも無理さ。銀河の彼方から超科学と共にやって来たわけじゃないしね。ボクらの組織の科学は、そりゃあ最先端さ。けど、あくまでも地球レベルでの最先端。人間を改造して、急激に姿が変わるようにするとか、何十メートルも跳べるようにするとか、火を吹くとか、毒の泡を吐くとか、皮膚が弾丸を弾くとか、そういうふうには出来ないよ。そんなのをやりたければ、人間を改造するより、イチからそういう生き物なり機械なりを作った方がいい」

俺がアイツから聞いた話だと、首から下は全て改造され、あとは脳の改造を残すのみとなったときに運良く目覚めて、それで逃げて来たってことらしいけど。

「アイツそんなこと云ってんの?」

云ってるよ。改造された体には超人的なパワーと耐久力があって、そのオカゲであの恐ろしい手術室から脱出できたし、追ってきた蜘蛛のバケモノを撃退することも出来たんだって。

「蜘蛛のバケモノって、多分、タヤマさんのこと云ってんだろうなあ……」

覆面の男はそう呟くと、吸いかけのハイライトを灰皿で押し消し、両手の指を組み合わせ、すぐに離して云った。

「逆なんだ。アイツが云ってることとまるで逆。つまりね、僕らはアイツの脳以外は一切触ってない。脳だけを手術した。もちろん改造なんて大げさなもんじゃないよ。ただの手術。いや、まあ、組織が独自に開発した未承認の脳外科手術なんだけどね」

なぜ脳だけを手術したと断言出来る?

「居たからだよ。その場に僕はいた。手術助手としてね」

覆面の男は覆面の穴から出た鼻の頭を掻く。

「だいたい、アンタ、アイツに直に会ってないでしょ?」

メールのやりとりだけだね。

「イマドキだなあ。会うといいよ。僕の云ってることが本当だって分かるから」

そうかい?

「うん。アイツは20年前のバイク事故のせいでずっと植物状態だった。それがこの前の僕らの手術で奇跡的に目覚めたんだよ。超人的なパワーどころか、筋肉が萎縮して未だに満足に歩くことも出来ないから」

「長い手紙を書くヤツ」


周りの人間がその男のことを先生と呼ぶので、俺もそう呼んだ。先生と云っても俺よりずっと年下だ。いや、そもそも俺より年上の人間なんていないわけだが。

先生は俺より年下だが人間全体の中では老齢の方に入る。

もうそろそろいいんじゃないでしょうか、と先生が俺に云った。俺が作っていたゆで卵のことを云ってるのではないのは明らかだ。このフレーズを俺はもう何万回も先生から聞かされている。いや。何万回はもちろん誇張だ。

今、先生のこころには先生の親友だったKのことが浮かんでいる筈だ。正確に云えば、Kに対する先生の責任の取り方のことが。昔、学生時代、先生はKという親友に死なれている。自殺だ。先生はKの自殺を自分のせいだと思ってきた。いわゆる男女関係のアレで自分がとった行動が親友のKを自殺に追い込んだと思い込み、以来ずっと責任を感じ悩み続けているのだ。つまり先生の云う、もうそろそろいい、は、もうそろそろ自分はあの責任をとって死ぬべきなんじゃないか、という意味だ。

先生は少し落ち込むと必ずこの話を俺にする。俺はいつもと同じに、自殺は後の始末が面倒だから迷惑だと先生に答える。では、君が殺してくれませんかと先生。君はそれが仕事でしょう、と。勘違いだ。俺にはそんな力も権限もないと突き返す。ここまではいつもの通り。今回はそのあとが違った。

実は、なぜ私が死ななければならないか、その理由を出来る限り正確に、そして正直に手紙に書いてきました。

先生はそう云うと、足下に置いてあった自分の鞄をテーブルの上に上げ、中身を取り出して俺に見せた。分厚い紙の束。手紙の域を超えている。何を持って来たのか気にはなっていたがそういうことか。全く人間というものは分からない。そんな大作が書き上げられるのは生きる気力に満ちてる証拠だろう、バカバカしい。俺は無言で卵の鍋がコトコト鳴るのを聞いていた。俺が黙っているので先生は少し詰め寄った。

君に読んでほしいのです。読んで、過去の私の罪と、その罪を償うために是非とも死なねばならない現在の私の情況とを理解してもらいたいのです。

冗談じゃない。時間の無駄さ。全く同じ出来事を人間は生きる理由にも死ぬ理由にもするんだ。生にも死にも徹頭徹尾理由なんかない。

そんなことより、と俺は云った。はい、と先生。
俺のゆで卵があと1分半茹であがるよ。

その日先生は俺のゆで卵を三個も食った。
先生が自殺したのはその二日後だった。

「殺すためだけに殺すヤツ」


もし人間が狼に襲われて食われても、それだけでその人間が跡形もなくこの世界から消え去ることはない。魂の話じゃない。肉体の話だ。多様なスカヴェンジャー達が肉食獣の〈食い残し〉を片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消え去る。

その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれたバアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の下顎のない頭部だった。狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。

確かに人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回バアさんと女の子をこんな姿にしたのは人間の快楽殺人者ではない。狼だ。

狼の目的は殺しではなく食うことにある。食う行為は遺体をひどく損傷させる。だから、狼に食われた遺体は快楽殺人者の〈作品〉に似るが、両者は根本のテツガクが異なるので見分けがつく。その違いとは命に対する態度だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に快楽殺人者は、そもそもが命に取り憑かれた存在としての人間が度を超してトチ狂ったものだから、その殺戮には当然のように命に対する病的な執着が出る。快楽殺人者は、命を奪い、損ない、蔑ろにするということ自体に意味を見い出しているのだ。だが、命には意味も価値もない。快楽殺人者のそれは、人間が普通によくやる、自分の無意味な人生を意味があるかのように振り返って感慨に浸るのと根は同じだ。そういう人間の本質的な愚かさが快楽殺人者を生む。

繰り返そう。山小屋の殺戮には命に対する執着の跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でなければ、俺の出番はおそらくない。実際、しばらく調べて回ったが、バアさんの〈姿〉も、赤い頭巾の子供の〈姿〉も見つけられなかった。老いた個体や幼い個体が肉食獣の餌食になるのは、健全な命の営みとさえ云える。こういう場合の死は、たいてい後腐れを残さない。

俺は手帳のリストに線を引いて、山小屋をあとにした。

だが、村人達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかった。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の大山猫、そして一組の狼のツガイが〈容疑者〉として撃ち殺された。命の収支が合わなくなることなどお構いなしだ。俺は、闇に潜んで煙草を吹かしながら、その一部始終を見た。この地球上で唯一、ただ殺すためだけに殺す生き物の所業を。