2020年9月30日 水曜日/晴。ここ数日に比べると気温が高い。
(『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』メモの昨日の続き)
何度も喩えに出して恐縮だが、キリスト教の熱心な信仰者は、[科学が明るみにする単なる事実]と[キリスト教の教え]が一致しない時に、どうにかしてキリスト教の教えを「救おう」とする。それと同じように、生命に拠る不合理や不条理や理不尽や、まあ、言ってしまえば、アタマの悪い所業のアレコレを、生命教信者たちは、どうにかして「救おう」と奮闘する。
ここでいう「救う」とは、生命を生命のまま残して、その「行儀の悪さ」だけを取り除いたり、巧い言い訳を考えだしたりしたいと望む、といこと。というか、宗教も哲学も文学も、まあ、モチーフはそればっかりと言っていい。人間が作り出すどんな物語も、結局は「生命の紡ぎ出す不始末」の弁解やコジツケや開き直り。それが、古今東西あらゆる場所で有史以来生み出されてきた「物語」の正体。だから、逆に言えば、「生命教」から解放されてしまうと、「物語を紡ぎ出さなければらない」という「強迫観念」からも解放される(解放されてしまう)。もっとも本質的で強力な「憑き物」が取れてしまうから。それを指して、嘗てゴータマは「ニルバーナ」と言ったのだろうが、物語を作ることを商売や、あるいは生きがいにしている人間にとっては、これは「致命的な事態」でもある。まあ、ご苦労さん、というより他ない。
さて、いつの場合もいつの時代も、「信者」ではない者から見れば、信者の「苦悩」は単なる「ゴッコ遊び」でしかない。つまり、信者ではないもの言わせれば、例えば、キリスト教の「不合理」を解消したいなら、キリスト教そのものを見限ってしまえばいいだけの話だから。同様に、生命の「不合理」も、生命そのものを見限ってしまえばいいだけのことなのだが、「生命教信者」たちは、たとえばキリスト教徒以上に、それがなかなかに難しい。というのも、生命教が信者たちに自覚を与えない宗教だからだ。生命教信者は、自分が「信者」であることにすら気づけない。そもそも「生命教」という概念すらないので、やれ、肉親との別れだの、戦争だの、恋だの、死だの、人生の意味だの、未来の希望や絶望だので、「無駄」に思い苦しむことになる。「生命という概念にとらわれていることそのものがダメだ」と気づけば、それで全て済む話だというのに。
(明日に続く)