2020年9月30日水曜日

『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』メモの昨日の続き

 

2020年9月30日 水曜日/晴。ここ数日に比べると気温が高い。


(『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』メモの昨日の続き)


何度も喩えに出して恐縮だが、キリスト教の熱心な信仰者は、[科学が明るみにする単なる事実]と[キリスト教の教え]が一致しない時に、どうにかしてキリスト教の教えを「救おう」とする。それと同じように、生命に拠る不合理や不条理や理不尽や、まあ、言ってしまえば、アタマの悪い所業のアレコレを、生命教信者たちは、どうにかして「救おう」と奮闘する。


ここでいう「救う」とは、生命を生命のまま残して、その「行儀の悪さ」だけを取り除いたり、巧い言い訳を考えだしたりしたいと望む、といこと。というか、宗教も哲学も文学も、まあ、モチーフはそればっかりと言っていい。人間が作り出すどんな物語も、結局は「生命の紡ぎ出す不始末」の弁解やコジツケや開き直り。それが、古今東西あらゆる場所で有史以来生み出されてきた「物語」の正体。だから、逆に言えば、「生命教」から解放されてしまうと、「物語を紡ぎ出さなければらない」という「強迫観念」からも解放される(解放されてしまう)。もっとも本質的で強力な「憑き物」が取れてしまうから。それを指して、嘗てゴータマは「ニルバーナ」と言ったのだろうが、物語を作ることを商売や、あるいは生きがいにしている人間にとっては、これは「致命的な事態」でもある。まあ、ご苦労さん、というより他ない。


さて、いつの場合もいつの時代も、「信者」ではない者から見れば、信者の「苦悩」は単なる「ゴッコ遊び」でしかない。つまり、信者ではないもの言わせれば、例えば、キリスト教の「不合理」を解消したいなら、キリスト教そのものを見限ってしまえばいいだけの話だから。同様に、生命の「不合理」も、生命そのものを見限ってしまえばいいだけのことなのだが、「生命教信者」たちは、たとえばキリスト教徒以上に、それがなかなかに難しい。というのも、生命教が信者たちに自覚を与えない宗教だからだ。生命教信者は、自分が「信者」であることにすら気づけない。そもそも「生命教」という概念すらないので、やれ、肉親との別れだの、戦争だの、恋だの、死だの、人生の意味だの、未来の希望や絶望だので、「無駄」に思い苦しむことになる。「生命という概念にとらわれていることそのものがダメだ」と気づけば、それで全て済む話だというのに。


(明日に続く)


2020年9月29日火曜日

宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』をまた読んだ。大昔に読んで、ほぼ全て忘れていたから。

 

2020年9月29日 火曜日/晴。涼しい。


[古澤巌のナポリ「酔っ払い」旅行]以来の『旅するイタリア語』のファンで、最新の[小関裕太のシチリア「女たらし」旅行]の「2周目」の放送が終わってしまい、このコロナ騒動の最中、次はどうするのかと思ったら、なんと番組自体が『旅するためのイタリア語』になっていた。つまり、どうやら現地には行かないらしい。



【CASSHERN:メモ】


「生き返った」ルナが鉄也に言う「謎のセリフ」=「逃げて、鉄也」。これは、生き返ったルナの「中」に、鉄也が妻を殺したことを思い出した(気づいた)ブライ(の魂/記憶)があって(ルナはブライから流れであた地のおかげで生き返っているから)、それが、鉄也を殺そうとしているからこその「逃げて」なのではないだろうか? すると、最後のキャシャーンの爆発は、自爆ではなく、生き返って「怪力」を手に入れたルナが、キャシャーンのスーツを引き裂いたことで、キャシャーンの肉体が内側から破裂したということが考えられる。つまり、キャシャーンはルナ(とブライ)に殺された(殺されることを受け入れた)ということになる。



宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』をまた読んだ。大昔に読んで、ほぼ全て忘れていたから。


「お子様ランチ」のような映画版とは、宮崎駿の本気度がまるで違う作品。映画の百倍は面白い。でもまあ、地球によくある「生命教の経典」の一つなのもそのとおり。しかし、地球人が作るお話は、現状どれもこれもこの段階なので、それは宮崎駿が「ワルイ」わけじゃない。で、「生命教」とは何かを知りたければ、とりあえず、この漫画を読めば、分かる。ただ、作者の宮崎駿自身が(というか現状地球人類のほぼ全てがそうなんだけど)生命教信者なので、このお話も、生命教の「外」から語られるものではなく、例えばキリスト教徒が作り上げた物語を読むときのような、一定の「留意」は必要。


なぜ、宮崎駿自身が生命教信者だとわかるのかと言えば、主人公ナウシカの究極の「敵」もまた、生命教信者だからだ。というか、結局、この物語に登場する「ちょっとモノのわかった連中」は全員「生命教信者」。この物語の登場人物たちは、誰一人として[生命以外の知性の可能性]を考えておらず、全員が「知性すなわち生命」という迷妄のうちにある。これは、つまりは、作品の「神」である作者宮崎駿自身がそうだからだ。

(つづく)

CASSHERN:メモ

 ▼昨日久しぶりに観た『CASSHERN』は、ちゃんと聞くと、セリフは相当マズイ。というか、安っぽい。だから、人物造形も、実は相当安っぽい。しかし、それでも、最後まで見ると、作品の伝えようとした「気持ち」は痛いほど分かる。それは、生命教信者たちが流す「血の涙」。とは言え、生命教信者たちに敢えて言いたい。君たちが「血の涙」を流すのは、君たちが生き物=生命だからではない。生命の呪縛から逃れられない知性だからだ。生命は「地」であり「図」は知性なのだ。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。知性にとって、生命は「持病」である。

▼この『CASHERN』も、典型的な「生命教寓話」。

▼人物造形の安っぽさは、例えば、東博士が、「命の水」を使って鉄也を生きかえらせようとしたとき、その様子をそばで見ていた鉄也の霊が、「父さんやめてくれ、俺はもうそっちへは戻りたくないんだ」と叫ぶが、その直前まで、死んだことを激しく悔やんで、母ミドリの側で泣いたりしているので、鉄也の振る舞いには一貫性がない。これは、監督の場面主義の弊害。すなわち、つい、その場面の「美しさ」のためだけの振る舞いをキャラクターにやらせてしまうので、一人の連続した存在としての人間という感じがなくなるのだ。

▼鉄也がルナに言う「お前も見ただろう。人間が人間でないものに何をするのか」

▼鉄也がルナに言う「俺はもう人間ではないんだ」。これは、キャシャーンになったからではなく、戦争で、たとえば、ブライの妻(上のセリフを言ったときは殺した相手が「誰」なのかは知らない)を撃ち殺したことで「もはや人間ではない」と言っているのだ。

▼「いなづま」は命を「弄ぶ」存在が用いる「装置」。生命教を信仰する表現者たちは、こういう設定に陥りがち。だが、命はそんな、ダイソレタモノではない。

▼上条ミキオ総帥が東博士に言う。「命がたったひとつでないのなら、我々は何のために必死になって生きているのですか?」

▼ブライは、妻(鶴田真由)が鉄也に撃ち殺されるところを見せられてから殺された。それを、鉄也は、ビグ・ザム的決戦兵器の自爆に巻き込まれたときに「思い出す」。一方、上条総帥の手榴弾自爆に巻き込まれて死んだブライは「私には何も見えない」と言い残して死ぬ。全てを思い出したキャシャーン=鉄也は、ブライの死体にすがりついて「許してくれ」と泣く。

(2020年9月27日 日曜日)


▼「「生き返った」ルナが鉄也に言う「謎のセリフ」=「逃げて、鉄也」。これは、生き返ったルナの「中」に、鉄也が妻を殺したことを思い出した(気づいた)ブライ(の魂/記憶)があって(ルナはブライから流れであた地のおかげで生き返っているから)、それが、鉄也を殺そうとしているからこその「逃げて」なのではないだろうか? すると、最後のキャシャーンの爆発は、自爆ではなく、生き返って「怪力」を手に入れたルナが、キャシャーンのスーツを引き裂いたことで、キャシャーンの肉体が内側から破裂したということが考えられる。つまり、キャシャーンはルナ(とブライ)に殺された(殺されることを受け入れた)ということになる。

(2020年9月29日 火曜日)

2020年9月28日月曜日

核のゴミ埋立地騒動(その3)

 

2020年9月28日 月曜日/曇


(一昨日の続き)


核のゴミ埋立地騒動の問題の本質は、個別の市町村が立候補したとか、反対だとか賛成だとかという「浅瀬」にはない。こんな[税金をドブに捨てるような制度]が、特に何の不都合を引き起こすこともなく「成立」していることが問題なのだ。


前にも書いたが、これは、「問診に答えてくれたら最大で20億円差し上げます。問診でOKが出て、次に実際に体を検査させてくれたら、今度は70億円を差し上げます。で、体の検査でも合格が出たら、そこで初めて臨床実験用の医療装置を体に埋め込む手術をさせてもらいます。もちろん、この3つのどの段階でも、嫌だと思った時点でやめてもらって構いませんし、各段階で差し上げたお金を返せとは言いません」という話。


この話は、ちょっと前にあった、PayPayの「謎の大盤振る舞い」に似てなくもない。当時のPayPayの「やり口」は、印象としては、屋根の上から千両箱の小判をばらまいているようなもので、あんなことをやって、PayPayに(と言うか孫さんに)何の得があるのだろうかと世間様は思ったわけだ。で、まあ、実際は、ちゃんと得になることがあるから(少なくとも孫さんはそう考えたから)、計算ずくの投資として「千両箱から小判をばらまいて」いたのだけど、今回の「核のゴミ埋立地用大盤振る舞い」には、そういう類の計算は何もないように見える。単に、日本政府と官僚たちが、日本国民や地方行政者を舐めきっているからこそやれる、確信犯的偽「大盤振る舞い」なのだ。


つまり、日本政府や官僚は、自分たちが、「核のゴミの埋立地のための文献調査をさせてくれたらそれだけで20億円出しましょう」と言っても、日本中の市町村が次から次へと手を挙げることなど絶対にないと踏んでいるからこそ、こんな、まるで、若い女が「10万円でアナタと寝ます」と言ってネットに自分の口座番号を出すような迂闊なことを「平気」でやれてしまうのだ。


こんなもの、「タダで20億円くれてやる」と言っているようなものなのに、実際、ほぼ誰も手を挙げないのだから、政府や官僚の認識は「正しい」わけだけど、この事実は、所謂日本国民と呼ばれる人たちの「国家を形成する人間としてはまるでアテにならない感じ」を端的に表している。変な言い方をすれば、それは、後でその子供に殴り殺されることになる[子供を躾けられない親]と同じだから。

2020年9月27日日曜日

昨日久しぶりに観た『CASSHERN』は、ちゃんと聞くと、セリフは相当マズイ。というか、安っぽい。


2020年9月27日 日曜日/晴。快適


▼昨日久しぶりに観た『CASSHERN』は、ちゃんと聞くと、セリフは相当マズイ。というか、安っぽい。だから、人物造形も、実は相当安っぽい。しかし、それでも、最後まで見ると、作品の伝えようとした「気持ち」は痛いほど分かる。それは、生命教信者たちが流す「血の涙」。とは言え、生命教信者たちに敢えて言いたい。君たちが「血の涙」を流すのは、君たちが生き物=生命だからではない。生命の呪縛から逃れられない知性だからだ。生命は「地」であり「図」は知性なのだ。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。知性にとって、生命は「持病」である。

▼この『CASHERN』も、典型的な「生命教寓話」。

▼人物造形の安っぽさは、例えば、東博士が、「命の水」を使って鉄也を生きかえらせようとしたとき、その様子をそばで見ていた鉄也の霊が、「父さんやめてくれ、俺はもうそっちへは戻りたくないんだ」と叫ぶが、その直前まで、死んだことを激しく悔やんで、母ミドリの側で泣いたりしているので、鉄也の振る舞いには一貫性がない。これは、監督の場面主義の弊害。すなわち、つい、その場面の「美しさ」のためだけの振る舞いをキャラクターにやらせてしまうので、一人の連続した存在としての人間という感じがなくなるのだ。

▼鉄也がルナに言う「お前も見ただろう。人間が人間でないものに何をするのか」

▼鉄也がルナに言う「俺はもう人間ではないんだ」。これは、キャシャーンになったからではなく、戦争で、たとえば、ブライの妻(上のセリフを言ったときは殺した相手が「誰」なのかは知らない)を撃ち殺したことで「もはや人間ではない」と言っているのだ。

▼「いなづま」は命を「弄ぶ」存在が用いる「装置」。生命教を信仰する表現者たちは、こういう設定に陥りがち。だが、命はそんな、ダイソレタモノではない。

▼上条ミキオ総帥が東博士に言う。「命がたったひとつでないのなら、我々は何のために必死になって生きているのですか?」

▼ブライは、妻(鶴田真由)が鉄也に撃ち殺されるところを見せられてから殺された。それを、鉄也は、ビグ・ザム的決戦兵器の自爆に巻き込まれたときに「思い出す」。一方、上条総帥の手榴弾自爆に巻き込まれて死んだブライは「私には何も見えない」と言い残して死ぬ。全てを思い出したキャシャーン=鉄也は、ブライの死体にすがりついて「許してくれ」と泣く。

2020年9月26日土曜日

核のゴミ埋立地騒動(その2)

 

2020年9月26日 土曜日/曇り


(昨日の続き)


つまり、最初に約束したはずの「住民の同意」という条件を日本政府が反故にするかもしれないという疑念と懸念を持っている町民がいるということ。そんなことを思うのは、日本政府を詐欺集団か、「良くて」全体主義の独裁政府のようにミナシテいるからだけど、しかし、ホンモノの全体主義の独裁政府なら、「地元」には事前に何も知らせず、勝手に調べて、勝手に地質調査等を始めて、勝手に建設工事を始めるわけで、あとでなかったことにする(取り下げる/踏みつけにする)つもりの条件をわざわざ提示するような回りくどいことはしない。


何か思い違いをしている人が多いが、福島原発をはじめとする、日本各地の原発や、青森の「再処理施設」は、「地元住民の同意」が得られたから、あの場所に存在しているのだ。日本政府が「住民の同意」という条件を反故にしたからではない。


すると、寿都町の町民のうちで、町長の腹づもりが分かった上で反対している連中は、同じ町内の町民たちを恐れているということになる。つまり、一旦「立候補」してしまうと、埋立地にしてもかまわないと言い出す町民が出てきて、町が本当に埋立地になってしまうことを恐れているのだ。


これとは全く次元の違う「反対」も考えられる。どこかの段階で「調査」が中止になるのが「不自然」にならないように、あらかじめ「町内には根強い反対意見が前からあった」という状況を「演出」するための「反対」だ。そもそも、町長は、わが町を「埋立地」にするつもりは初めからないのだから、それを「知っている」町民には、町長に反対する理由はないのだが、町をあげての賛成賛成では、初めから交付金「持ち逃げ」の立候補だと、世間様にバレてしまうので、とりあえず一定数の町民は「断固反対」を訴えていたほうがイイ。


一旦まとめるとこうなる。


町長の「交付金だけもらうイチヌケタ作戦」を、

1)理解して(察して)いて、だから反対はしない町民

2)理解して(察して)いるが、反対している町民

3)理解して(察して)いないので、反対している町民

の3種類の町民がいる。そのうちの(2)の町民の反対理由には3種類あって

2ー1)日本政府を信用できない

2ー2)町民を信用できない(「裏切り者」を恐れている)

2ー3)交付金持ち逃げを許さない世間の圧力を恐れている


とは言え、この騒動の問題の本質は別にある。


(明後日に続く)


2020年9月25日金曜日

核のゴミの埋立地に立候補を表明した寿都町について取材したNHKのローカル番組を観た

 

2020年9月25日 金曜日/晴れ。肌寒い


『熱海の捜査官』メモ:

「3年前」に死んだ(桂東さんの調べ)蛇川老人は、旅先の、天国に一番近い島ニューカレドニアで死んで、「天国」の南熱海の「バスのルート」に現れたから、アロハシャツを着てるのだろう。



去年やっていた朝ドラの『あおぞら』(観てない)の主人公の仕事場には、高畑勲や宮崎駿がモデルになってるキャラが出ていたことを、岡田斗司夫のおかげで今日知った。



核のゴミの埋立地に立候補を表明した寿都町について取材したNHKのローカル番組を観た(その番組自体は大泉洋の事務所の社長がMCをやっているドーシヨウモナイ代物)。


当地の町長は、ただただ交付金が目当てで、実際に町を埋立地にする気などサラサラないことが、さらに良くわかった。ヤヤコシくなっているのは、町長がそういう「腹の中」を公言するわけにはいかないから。


しかし、まあ、そんなことを公言しなくても、町長が交付金だけもらってどこかの段階で断るつもりなのは、フツウの知能があればだれでも察しがつく。


政府が示している「埋立地」の決定の仕組みを、大学の「人体実験」に喩えるなら、そのバイト募集の条件は、「問診を答えてくれたら20億円を払う。問診で合格した場合に、次の段階である身体検査を受けさせてくれたらさらに70億円払う。しかも、嫌になったら、次の段階に進むことなくやめて構わない」という、マトモな感覚なら詐欺としか思えないような「超低姿勢」の「超美味い話」。


もっと身も蓋もなく言ってしまえば、「アンケートに答えてくれた20億円を進呈する」と言ってるようなもの。しかも、それを言ってるのは、天下の日本政府なのだ。本来なら、挙げる手があるやつはみんな手を挙げててもおかしくないはずなのに、実際に手を挙げたのは北海道の貧乏町だけ。


なぜなんだろう?


理由はいくつか考えられる。そのいくつか考えらえる理由は、それぞれに段階というか次元が違っている。


例えば、一番最初に思いつくのが、「いくらなんでも話がうますぎる」から警戒している、というもの。日本政府はいつでもやめていいと言っているが、一旦手をあげたら、国家権力が、その暴力装置を脅しに使いながら、なし崩し的に、あるいは「裏から手を回して」、辞退できないようにするのではないか、という疑念。あるいは恐れ。「ちょっとしたアンケート」は「詐欺」の常套手段だしね。


(明日に続く)

2020年9月24日木曜日

『コロンボ/もう一つの鍵(LADY IN WAITING)』メモ:(後編)

 

2020年9月24日 木曜日/晴。涼しい


『コロンボ/もう一つの鍵(LADY IN WAITING)』メモ:(後編)


このエピソードは、妹のバカっぷりばかりが目につくが、実は、一見真っ当な人間に見える兄や母親が、本当は[他人を見た目や地位で判断する差別意識の強い、偏見だらけの嫌な人間]であることをちゃんと描いている。で、そこを見落とすと、なにか単に、バカな犯人にイライラするだけの薄っぺらなエピソードになってしまう。逆に、その点を理解すると、犯人が哀れな存在に見えてくるし、単なる面白シーンだと思って見過ごしていた場面にも別の意味が見えてくる。


例えば、母親の飼っている小さな犬が、執拗にコロンボに吠えかかる場面。よくよく考えてみると、わざわざ犬を用意して、コロンボに吠え掛からせる意味がよくわからない。つまり、ドラマ撮影の手間として見た場合、あの場面は不自然に「コスト」が高い。それをわざわざ撮って放映するのは、作り手にとって特別な意味があるからだ。言ってしまうと、あの「うるさいワン公」は、母親のコロンボに対する内心の強い偏見と蔑みを暗示している。母親を良識を持ったバランスのとれた人間だと思ってしまうとこれには気づきにくいが、偏見を隠したイヤな人間だと気づくと、みすぼらしい刑事に執拗に吠え掛かる「うるさいワン公」の「意味」はすぐに分かる。


一見、イイ人そうに見えるこの母親の「病理」を描いた場面は他にもある。兄を「殺してしまった」妹に、会っていきなり平手打ちを食らわすのがそうだ。「事故」で実の兄を撃ち殺してしまった妹(自分の娘)に、いきなり平手打ちを食らわすのは、ぼーっと見てると、そりゃそうかもねになるかもしれないが、よくよく考えてみると、母親として相当に異様。ここで、平手打ちをした後にすぐに抱きしめるくらいすれば「まだ大丈夫」だが、それもないので、この母親の態度の異様さは決定的。つまり、この母親は、ずっとこの兄妹を不平等に扱って来たし、そのことに何の疑問も抱いてないし、長年「そういう扱い」を受けて来た妹の内面を推し量ることもできない。ソウイウ母親なのだ。ソウイウ母親だからこそ、コウイウ娘(妹)が作られた、という構造。あの場面は、「兄」を殺したのは、間接的には、この母親だ、と言っているようなもの。



wet系単語:moist(肯定的)、damp(否定的)、humid(気候の蒸し暑さ)。

2020年9月23日水曜日

『コロンボ/もう一つの鍵(LADY IN WAITING)』メモ:

 

2020年9月23日 水曜日/曇り。涼しい。朝晩はむしろ寒い。


『コロンボ/もう一つの鍵(LADY IN WAITING)』メモ:(前編)


このエピソードは、長い間ずっと「イカれたバカな妹が、有能でマトモな兄を殺してしまう」話だと思っていたが、どうも違うらしいことを、今頃になって気づいた(『コロンボ』の旧シリーズは確実に15周はしている)。


長年の「勘違い」の理由は、妹(犯人)の恋人であるピーター(ピーター・フォークのことではなく、役名のピーター。演じるのは『裸の銃を持つ男』の俳優)の捉え方をこれまでずっと間違えていたからだ。


つまりこれまでは、兄(社長/被害者)と母親は、ピーターの本性/本心を「ちゃんと見抜いて」いて(ピーターが妹を「愛している」のは、彼女が社長の妹だからで、結局は出世欲ためにすぎない、と両者ともセリフで明言している)、「愚かな」妹だけが、ピーターの正体もしくは本心に気づいていない、というのが物語の中の「事実」だと思っていた。


しかし、丁寧に人物描写を追ってみると、ピーターに関していえば、正しいのは、「当初」の妹の主張の方で、兄と母親のソレは、[財産家や経営者特有の偏見=誰かが私の財産を狙ってると常に思いがち]の結果だとわかる。ピーターが「財産目当て」ではないことは、当人がそう言っているからというだけなく、ホテルで「最後通牒」を受け取ったピーターがその足で兄(社長)のところに直談判に行ったことからも分かる(結果、この行動が最終的に事件を解決に導く)。そして何より、主人公のコロンボがピーターに対して「腹を割って」事件解決の協力を依頼していることからも、主要人物のうちでは、ピーターこそが「マトモな」人間であることがわかる。


で、このエピソードの[殺人事件とは関係ない部分]の重要なモチーフは、「当初」はそうではなかった妹が、兄を殺して自分が社長の椅子に座るとなった途端に、[兄や母親と同じ種類の人間]になってしまうこと。言い換えると「世界の見え方(人の振る舞い方と言ってもいいかもしれない)は、その人の資質というよりは、その人の立場で決まってしまいがち」という、作り手の[人間に対するアキラメと嘲笑]。ピーターが妹に言う「なんだかキミは兄さんに似てきたぞ」。それに対して妹は「兄さんの言ってた通りかもしれないわ。あなたは私にふさわしくない」と返す。ヤレヤレ。


(明日につづく)

2020年9月22日火曜日

Gyaoで『熱海の捜査官?』全話が見れるようになっていた

 

2020年9月22日 火曜日/晴。部屋にいると快適だが、窓を開けると寒い。


Gyaoで『熱海の捜査官?』全話が見れるようになっていた。栗山千明が出てるナントカいう映画かドラマの「宣伝」みたいなもの。とりあえず、1話と2話を観た。おなじナントカいう映画かドラマに仲間由紀恵も出ているらしく、それで、『トリック』のテレビのスペシャル版も3本か4本もGyaoで観れるようになっていたが、まあ、こっちは観ても観なくてもいいや。



√そのままでは宇宙の始まりから終わりまで待っても絶対に関わりを持たない二種類の物理現象を「結びつけ」て第3の物理現象を出現させるのが知性現象。



【メモ】

炭素を含んだ鉄は脆い。炒鋼炉で空気を大量に送り込んで、炭素と酸素を結びつけて二酸化炭素にし、鉄から炭素を排出することで、粘りのある鉄即ち鋼にする。


【メモ】

左前になる:左前とは、通常と反対の着物の着方で、死者の装束に用いることから、縁起が悪いということ。運が傾き、物事がうまくいかないこと。



コロナ騒動で、「ベーシックインカム」の意義が理解されるだろう。すなわち、「仕事で稼いだカネで生活をしない」ということ。「仕事ができなくなっても生活に困らない」ということ。



コロナ騒動で、「テレビの中のこと」も所詮は人間が作っていることだという、本来当たり前のことを、多くの人間が実感として掴んだはず。



「天然物」を「ありがたがって」、つまり、「人間が本来食うべきものだ」という認識で食うことは、このまま人間がどんどんと「進歩」して行くつもりなら、間違った行動(何処かのタイミングで滅亡するつもりなら、そでもカマワナイ)。人間に食われるために生まれたわけではない生き物を食うことこそ、人間のあるべき姿や人間が目指すべきモノのように思うのは間違っている、ということ。人間の「進歩」には、「生命からの距離を置くこと」と「自然からの距離を取ること」こそが不可欠で不可避。



【メモ】

ナポリテーイン(のちのナポリンタン)は、そもそもハンバーグなどの「付け合わせ」料理だった。

(『日本人のおなまえ』)



女の「買い物」に時間がかかるのは、正体が「採集行動」だから。すなわち、森の中や海辺でキノコや貝を探し歩いているのと同じなのだ。それは、「探し歩いて見つける」ことにこそ「快感」を覚える行動なのだから、「いいものが見つかりそうな気がする」限り、延々と続く。

2020年9月21日月曜日

シンジ君がお父さんのDATプレイヤーでずっと聴いてるのは、やっぱり、ホネメガネちゃんが戦闘中に歌ってるのと同じ歌なんだろうなあ。


2020年9月21日 月曜日/晴。過ごしやすい


「エヴァ:序破Q」メモ:

で、シンジ君がお父さんのDATプレイヤーでずっと聴いてるのは、やっぱり、ホネメガネちゃんが戦闘中に歌ってるのと同じ歌なんだろうなあ。


あと、なぜゲンドウがシンジ君に冷たい態度なのかと言えば、それは、「Q」のミサトさんがシンジ君に冷たい態度なのと基本的に同じ理由だろう。シンジ君が、人類にとってどんな存在なのかを知っていれば、まあ、一緒に住もうとか、分かり合おうとか、そういうのはとりあえず置いといて、精神的にキョリを取るのがフツウ。というか、他にどんな接し方ができるだろう? だから、ゲンドウがシンジ君に対して「冷たい」ことを不思議がるのは、実は、そう思う方がオカシイ。ゲンドウとミサトさんの違いは、ゲンドウは「最初」からそれを知っていたけど、ミサトさんは「破」の物語の最後の最後にそれを知ったということ。知らなかったからこそ、ミサトさんは、「破」の最後に、綾波レイを助けようとするシンジ君を後押しするような言葉を投げかける(いくらなんでも、全人類の運命と引き換えに、中二男子が中二女子ひとりを助けることを「応援」したりしない)。


あと、「Q」は「ウルトラQ」?


ウルトラマンとイデオンを足して、庵野で割ったのがエヴァンゲリオン。



√思想や表現を陸地、「生命教」を海洋と見做すなら、この地球は、まるで惑星カラダンのように、陸地のほとんどない海の惑星。


√生命教信者の思想や表現は全て、世界の起源が「親」。「親」が「神」だったり「異星人」だったり「超文明」だったりするだけの違い。


√ゴータマの思想の本質を理解するには、生命教の呪縛から逃れるしかないが、ゴータマの思想自体が「生命教の呪縛を解け」だから、ハナシはナカナカややこしい。誰かがゴータマの思想を理解したときには、その[理解したという事実]によって、その人はすでに「生命教の呪縛から逃れる」ことを実践しているという「二重の意味」を持つ。それを指して、ゴータマは「某は悟った」という。


√身体も環境にすぎない。食べる・排泄する・眠る、そして患う。それらは全て、人間を煩わせるものとして、雨降りや寒波や日照りや台風や地震と同じ。喩えとしてではなく、事実、同じなのだ。そこに気づいた時、人間はようやく「自分の身体」というものの「正体」に気づく。それは、最も身近な「他者」、最強の「敵」である。

2020年9月20日日曜日

『エヴァンゲリオン:Q』2周目メモ

 

2020年9月20日 日曜日/曇り。すずしい


『エヴァンゲリオン:Q』2周目メモ:


冬月がシンジ君に見せる写真(碇ユイと赤ん坊のシンジ君が写ってる)に、ちゃんと赤フチメガネをかけた女子が写ってる。どう考えても「ホネメガネ」ちゃん。


カオル君が「ゲンドウの罠」に気づいた時、「さすがはリリンの王、シンジ君の父上だ」と呟く。そして、最後にアスカがシンジ君の手を引っ張って行くときに、「リリンが近づけるところまで歩くわよ」的なことを言う。で、この「リリン」ってなんだ? と思って、wikipediaで調べたら、いわゆる地球人類のことらしい。そうすると、アスカが「リリンの~」という表現(「みんなの~」とか「仲間の~」とか「ミサトの~」とかじゃなく)を使うのはやはり相当に「不穏」。アスカは、地球人類を(まるでカオルくんがやるように)「客体化」している(自身をその外側の存在とみなしている)から。


アスカに関する「不穏」はいくらでもあって、例えば、ホネメガネちゃんが、13号機からシンジ君を「引き抜く」ときに、「せめてアスカだけでも助けなさい」と言う。また、アスカ自身も、エントリープラグの中で縮こまっているシンジ君に「私を助けてくれないんだ」と言う。おそらく、アスカの左半身は、はっきりそうとわかる眼帯部分以外も「タイヘンなコト」になっているのだろう。つまり、『もののけ姫』のアシタカの右腕的な「一大事」なのだ。と言うのは、14年ぶりにアスカがシンジ君に放ったパンチ(ちゃんと左拳)が、頑丈な(あとでシンジ君が激しく叩いてもビクともしなかった)強化ガラス的なカベにヒビを入れているし、普段着のアスカの服の左半身に、なにやらワイヤー的なものが這い回っていたり、養生テープ的なものが貼られていたりするから。で、そのアスカの左側の「タイヘンな状態」をどうにかできるのは、シンジ君だけなんだろう。


アヤナミレイ(仮称)は、最後の最後に初めて、「命令」ではなく自分の意思で、「アダムスの器」(エヴァ9号機)から、脱出した。で、「アダムスの器」ってなに?


結局、ゲンドウは、嫁さん(綾波ユイ)を「取り戻そう」としているだけだよね。


あと、そもそも、冬月こそが、ゼーレとか使徒とか死海文書とかエヴァとかナントカインパクトとかに最初に手を出した人間で、ゲンドウとかユイとかホネメガネとかは、まあ、冬月に「巻き込まれた」クチなんだろうね。


2020年9月19日土曜日

日本語と英語の[文法ではなく「言葉のクセ」の違い]としてよく指摘されるのが、「~だと思う」の否定文の作り方

 

2020年9月19日 土曜日/晴。暑くはないが涼しくもない。


日本語と英語の[文法ではなく「言葉のクセ」の違い]としてよく指摘されるのが、「~だと思う」の否定文の作り方。例えば、日本語の「私は、君がそれをすべきではないと思う」は、英語では普通「 I don't think you should do that.」となる。


これの何がモヤモヤするのかと言えば、例に挙げた文章の[伝えたい本体]は、日本語も英語も間違いなく「君はそれをすべきではない」であり、「~と思う」は付け足し表現にすぎないのに、英語ではなぜか[伝えたい本体]の方を否定してそのカタチを変えてしまっているからだ。英語のこの言い回しは、日本語話者には「持って回った」ように感じられる。


もちろん、日本語でも英語でも、それぞれの否定位置を変えて、「私は、君がそれをすべきだとは思わない」「I think you shouldn't do that.」と表現することは全く可能。しかし、どちらの言語も、前者の例文の方が「普通」であり、後者のように表現すると、聞き手は特別な「含み」や「意図」や「思惑」を感じてしまう。それは、後者の方が、当該言語の話者にとって「持って回った感」があるからだ。というか、真相は逆で、この「持って回った感」が「含み」や「意図」になるのだ。


では、この「持って回った感」は[どこから/なぜ]生じるのか? と言うのは、「意味」から見ると、例えば日本語話者にとっては、英語話者にとっては自然に感じる「I don't think you should do that.」の方にこそ「持って回った」印象を受けるという事実があるからだ。


答えは「意味じゃない」ということ。実は「位置」が重要なのだ。よく見れば(別によく見なくてもわかるけど)、日本語も英語も、文章のはじめに近い位置の動詞を否定することを「自然」としている。逆に言えば、文章の最後の動詞を否定すると、どちらの言語も「持って回った感」が出てしまうのだ(考えて見ればアタリマエのこと)。


日本語が「すべき」を否定したがり、英語が「think」を否定したがるのは、単に、それぞれの文章で、それぞれの動詞が、他の動詞よりも「先に」出てきているからなのだ。だから、これも実は単なる「クセ」ではなく、「文法(一方は動詞が文末に来る。もう一方は主語のすぐ後に来る)」由来の違いなのだ。

「しかしその日は…」

 

シンジ(というかダミーシステム)vs. アスカ(というか第9使徒)の血みどろの対決が、綾波レイのお食事会と同じの日になったのは、エヴァ3号機は到着が予定外に「遅れた」せいなのだが、ゲンドウは、そうした「事故/血みどろの戦い」が起きることは知らなくても、エヴァの到着が「遅れる」ことはすでに「知っていた」のではないか、と思われる。つまり、2周目以降の人なので、エヴァに関しては、何日に何が起きたかは一応全部「知って」しているから。

2020年9月18日金曜日

NHKのおかげで、世に言うところの『エヴァンゲリオン』をようやくにして観た

 

2020年9月18日 金曜日/雨


NHKのおかげで、世に言うところの『エヴァンゲリオン』をようやくにして観た(奇しくも25年後!)。と言っても、元々のテレビシリーズも、元々の映画版も観ていない。観たのは、NHKの地上波(ウチのテレビは地上波しか映らない)で放送された「新劇場版」の「序破急」じゃなく「序破Q」の3作のみ。


この作品の一番の醍醐味は、難局を打破する[組織/作戦/司令そして現場]。だから、同じNHKがずっとやってる(そして全部観てる)「土建」ドキュメンタリーの『東京リボーン』と同じ種類のオモシロサ(オモシロイヨねえ)。


逆に言うと、だから、それ以外の要素は、まあ、そうした状況を作り出すための「方便」なので、ちょっと真面目には観てられないトコロも多い。


その、ちょっと真面目には観てられないトコロの一つである、『エヴァンゲリオン』の物語世界全体を覆っている「謎」についていえば、やっぱり、あそこに登場する主要人物たちは、「同じ世界」を「何周も」している人たちなのだろう。少なくとも1周目は終わって2周目(そうそう、「キラークイーン:バイツァダスト」とか『Twin Peaks Retun』とかのヨクアルヤツ)。


映画の冒頭でシンジくんが、まだ会ってないはずの綾波を幻視したり、綾波にお食事会に誘われたゲンドウが「しかしその日は…*」と言いかけたり、カオルくんが「シンジ君、今度も三番目か」「今度こそシンジ君だけは幸せに」と呟いてみたり、「2周目以上」感全開。


あと、映画の新キャラクターらしいメガネボインは、あれは「リサリサ」だよね。実は「ゲンドウくん」と同世代の人で、ゲンドウの古い知り合い的(あるいは綾波ユイの親友?)な位置なんだろうなあ。だから、アスカとは親子くらいの歳の開きがあるんだけど、「エヴァの呪い」で歳をとってない。彼女は、「Q」の、「エゥーゴ」じゃなくて、名前は忘れた反ネルフ組織の側に於ける[ゲンドウや冬月の「位置」]のキャラだろう。つまり、この世界が2周目以上(かつて何度も繰り返されたことをまた同じ面子で繰り返している「だけ」)だという自覚があるキャラたちの一人。ゲンドウ、冬月、カオルくん、そして、メガネボインちゃん。


あと、ついでに言うと、シンジ君が眠っていた期間が14年なのは、28歳になった綾波レイに会わせるためだろうなあ。


まあ、こんな「謎」はどうでもいいんだけど。

2020年9月17日木曜日

地球人類が描く物語は、現状、殆ど全て「生命教」の「説話」である


2020年9月17日 木曜日/曇りのち晴れ


どんなに大上段に構えていても、どんなに深刻ぶっても、あるいはどんなに全宇宙的規模の事件を描いていても、地球人類が描く物語は、それが小説であれ、映画であれ、アニメであれ、ゲームであれ、現状、殆ど全て「生命教」の「説話」である。


範囲を狭めて「スポーツ教」の「説話」というものを考えてみよう。その「説話」の中では、例えば、或るサッカーチームが決定率に悩んでいたり、或る新人投手の球がすごいと騒がれていたりする。そんなことばかりが、さも重要そうに語られる。それは、「スポーツ教」では、試合での勝利が特別な意味を持っているからだ。しかし、そもそも、サッカーや野球の試合で勝利することに、客観的で普遍的な意味や価値などない(「五体投地」や「礼拝」や「柏手」が信者以外には無意味なのと同じだ)。この「事実」によって、「スポーツ教」の「説話」は、信者以外には、悉く「茶番」なのだ。


「生命教」に戻る。生命教は、生命を御本尊とし、あるいは中心教義に据えているが、そんなものは、生命教の信者以外にはどんな意味も価値もない。なぜなら、生命は知性の永遠性を実現しないことが分かっているからだ。生命をアテにしていても、知性には未来がないことを、生命教の信仰から解き放たれた知性は気づいている。永遠という概念を持つ知性にとって、生命は穴の開いた船、空気の漏れる宇宙船でしかない。つまり、決定的に「不合格」仕組みなのだ。


ところが、この地球上に存在する知性は、全て生命依存型の知性であるがゆえに、特別な訓練をしなければ、「自動的に全員が」、ゴリゴリの生命教信者になってしまう。(ちなみに、人間の子供は、或る一定年齢以上になる前は、「生命教信者」ではなく、「ただの生命」=「生物」である)。そこで、本来「茶番」にすぎない「生命教の説話」が、宇宙の真理に触れるような神妙な顔つきで語られ、また受け取られることとなる。



生命を生命として認識するのは知性である。知性が不在の宇宙では、生命は[やや込み入った無意味な物理現象]にすぎない。生命に或る特別な地位を与えているのは知性である。ところが、生命は知性に「無関心」である。生命は知性ではないのだから「無関心」で当然なのだが、生命現象依存型の知性は普通、生命のこの「仕打ち」に気づけない。これが、生命の上で機能している知性の、ひとつの「限界」である。


PART10: LAURA IS THE ONE


▼Richardがミリアムの口封じに来る

▼トラウトパークで、Carlのギターの弾き語りの最中に、Steveが Beckeyに怒鳴り散らす。

▼ロドニーとキャンディとハエのエピソード「キャンディのハエ叩き」。

▼ダギーがベン先生の診察を受ける

▼ベン医師のところで健康診断をしたとき、ダギーのたくましい体にジェニーEがうっとりする。そしてその夜の「Dougie!」

▼ミッチェム兄弟(Mitchum brothers)がテレビでダギーのことを知る。*辞書で調べたら、Jonesには、ジョーンズという苗字以外に、「ご近所さん/隣人」という意味もある。

▼ネイディーンの「店」に掲げられている言葉は「RUN SILENT, RUN DRAPES」/チャドが手紙(ミリアムが保安官に宛てた)を盗む=ルーシーが或る朝、時計が止まっていた時にアンディが語ったことの話をする

▼リチャードがシルビアの家にカネをせびりに来る(孫と祖母の関係)。「Hello Johnny. How are you today?」

▼リチャードがシルビア(孫と祖母の関係)の家にカネを「せびり(実質強盗だけど)」に来たあとで、シルビアがベンにそのことを電話する。そのときの二人のやりとりで、ベンとシルビアはすでに離婚していることがわかる。ベン「お前(シルビア)には、これ以上のカネは送らない(send)」と言っているから。もしも、夫婦で一緒に暮らしているなら、sendではなく、渡す(give)とかを使うはず。なにより、ベンのその「言葉」に対して、シルビアが「じゃあ、今すぐ私の弁護士に電話する」と答えているのが決定的。シルビアとの電話を切った直後に、ベンが秘書のべバリーを夕食に誘うのは、だから、ベンが前妻(シルビア)に対する義理を捨てた(シルビアを本当に意味で見限った)ということだろう。

▼アルバートとバックホーンの検死官(女)がレストランで意気投合している

▼ミッチェム兄弟から、アンソニーをここに連れて来るようにと指示されるキャンディのエピソード

▼ホテルの部屋で、ゴードンが鹿の落書きをしていると、アルバートがドアをノックする。ドアを開けたゴードンが一瞬ローラのビジョンを見る=悪いクーパーとダイアンとのメールのやり取りを報告する=タミーが、ニューヨークのペントハウスの「箱」の部屋に悪いクーパーの写真を持って来る

▼丸太おばさんからホークへ「Laura is the One」

▼ロードハウスのシンガーは『マルホランド・ドライブ』の「泣き女」の歌手Rebekah del Rio。歌『no stars』をフルコーラス歌う。

PART11: THERE'S FIRE WHERE YOU ARE GOING


▼スティーブンからベッキーに電話がかかってきて、ベッキーがブチギレて、車で「現場」に向かう。で、「女」のアパートのドア(208号室)に銃を撃ち込む。その様子を聞いて、一階の廊下の先でスティーブンが「女」と一緒に、恐れおののいている。

▼カールが笛でバンを呼び、シェリーと二人でベッキーの後を追う(いや、二人はどこに向かってるのだろう? シェリーはベッキーの行き先は知らないはずだ)。車中でボビーに電話する。カールは無線で保安官事務所に連絡する。その中で「シェリー・ブリッグスと一緒だ」と言ってる

▼ゴードン、タミー、アルバート、ダイアン、ヘイスティング(校長)、デイブ・マックリー(刑事)が、ブリッグス少佐と会った「場所=シカモア2240(2240 Sycamore)」に到着。一連の怪奇現象(空の渦巻きなど)を体験する。ルース・ダヴェンポート(図書館司書)の首無し死体を発見する(腕にcoordinates[座標]が書かれている)。ヘイスティング、woodmanに惨殺される

▼ブリッグス家(ボビー、シェリー、ベッキー)が、スティーブンについて「家族会議」→その時、シェリーのいまの「彼氏=リチャードに手品をして見せたカナダ人のヤクザ(Red)」がやってきて、シェリーが尻尾を振って出て行く。唖然とする残された二人→シェリーが店に戻ってきたところで、路上で子供による銃の暴発事件が起きる→銃の暴発事件を起こした車の後ろの車のイカレタ女のドライバーとゲロを吐く娘(姪)

▼保安官事務所で、ホークの伝統的な「生きている地図」→「これは焚き火ではない。火の象徴だ。現代で言えば、電気のようなものだ」→(コウモリのような、悪魔のようなシンボル(悪いクーパーのトランプに描かれていたものと同じ)を指して、これはなんだとフランクが訊くと)「これについては知らない方がいい」→2代目ジャンク・ナンスみたいなジェシーが「保安官、僕の新しい車みたいくないですか?」

▼ダイアンが、座標が書き込まれたルースの(遺体の)腕の写真を覗き込む

▼ダギー、30milion dollars=3000万ドル(30億円)の小切手と箱入りのチェリーパイ(面会に行く直前、片腕の男に誘われて『SZYMON'S FAMOUS COFFEES』で買う)を持って、ミッチャム兄弟と会う→ブラッドリーがダギーを殺す夢を見た話をする→チェリーパイのおかげで、ダギーはミッチャム兄弟に殺されず、逆に大親友になる

▼「No Gym set」/どんな子供にも、ジムセットは必要だ(ミッチェム兄弟)

▼ダギーのおかげで、メガジャックポッドを当てまくって金持ちになった老婆が、ミッチャム兄弟に「お気づき、あなた方は特別な人とご一緒なのよ」と言う。

▼ロドニー(ミッチェム兄弟の兄の方)が、チェリーパイを一口食べて、Damn good!(うめえ!)という。それを聞いたダギー(Cooper)も、何か思い出しような顔で、「Dame good!」と呟く。


▼2020年9月15日 火曜日

▼「現場」(2240 sycamore)に入り込んだとき、アルバートの銃は今時のオートマチックだが、ゴードンの銃はリボルバー。

▼ロドニーがキャンディに、「Where have you been?」と言ったのは、文字通りには「お前、どこにいたんだ?」だが、意味としては「ぼーっとしてんじゃねえ」で、つまり、ロドニーはダギーに挨拶しろという意味でキャンディに声をかけたのに、キャンデイがいつまでもぼーっとしてダギーに挨拶をしないので、「Where have you been?」と言ったのを、キャンディは文字通りの意味に捉えて、「自動車がいっぱいいて……」と答えてしまう。

▼ミッチェム兄弟がダギーと「和解」するこの回が、多分、一番好き。

2020年9月15日火曜日

ゴードンの銃はリボルバー

 

2020年9月15日 火曜日/晴。涼しい


TP3メモ:PART11


「現場」(2240 sycamore)に入り込んだとき、アルバートの銃はオートマチックだが、ゴードンの銃はリボルバー。


ロドニーがキャンディに、「Where have you been?」と言ったのは、文字通りには「お前、どこにいたんだ?」だが、意味としては「ぼーっとしてんじゃねえ」で、つまり、ロドニーはダギーに挨拶しろという意味でキャンディに声をかけたのに、キャンデイがいつまでもぼーっとしてダギーニ挨拶をしないので、「Where have you been?」と言ったのを、キャンディは文字道理の意味に捉えて、「自動車がいっぱいいて……」と答えてしまう。


ミッチェム兄弟が、ダギーと「和解」するこの回が一番好き。



ここ一週間ほどは、岡田斗司夫のYouTubeばっかり見てる気がする。「話が合う」感じがすごく気に入ってるのだ。



前にも書いたが、宗教と科学は対立するものではない。なぜなら、宗教と科学は対等ではないからだ。一人の人間の「赤ん坊」と「成人」が、宗教と科学の関係。「数字を読む」が宗教の段階で、「数式を解く」が科学の段階と言ってもいいかもしれない。


宗教が世界中で「流行り」続けるのは、「理解」するのに「訓練」が要らないから。なぜ訓練が要らないのかと言えば、そもそも宗教というものが、[自然淘汰が用意してくれた人体の基本装備]だけで作り上げられたものだからだ。具体的に言えば、生まれつき備わっている人間の感覚器の精度および解像度によって作り上げられているからだ。


空気振動の音声が、耳(もしくは骨伝導を使うなら頭蓋骨)さえあれば、聞き取ることができるのと同じように、まあ、「普通」の身体があれば、「宗教の言ってること」は「ピンとくる」。いわゆる宗教体験が言うところの、ナニカ素晴らしいものが見えたとか、ナニカ神々しい声が聞こえたとかは、人間にもともと備わっている感覚器と脳髄の連携によって、ほとんどの人が体験できるし、再現できるし、だから、想像もできる。


一方で、科学の言うことは、例えていれば、ラジオ放送のようなもので、電波受信機がなければ何も聞くことはできない。この電波受信機に当たるものが、科学教育であり科学理解である。


怠惰な人々の内にもある「世界のアリヨウを理解したい」という欲求を満たす方法として、宗教はモッテコイなのだ。

2020年9月14日月曜日

3作目の『エヴァンゲリオン新劇場版:Q』も観た


2020年9月14日 月曜日/曇り。やや蒸す。


3作目の『エヴァンゲリオン新劇場版:Q』も観た(今回観た「新劇場版」の3作以外は観たことがない。また観る必要もないと分かった)。


ナギサくんとか、アヤナミレイの瞳が赤いのはやっぱり『ブレードランナー』のレプリカント表現か。『人類補完計画』は、シャアの言う「ニュータイプのための世作り」だろうか。


3作を観てわかったことは、庵野が一番やりたいことは、特撮描写、SF描写、庵野的にカッコイイ世界の風景描写。人物設定や物語のテーマなんかは、そのための「方便」。「謎」も「世界観」も「人間洞察」も、中高生レベル。だから、逆に「受けた」のだろう。


お話自体は、「誰でもゲームが上手くなったように思えるゲーム」に似てる。ハタで見てるとものすごく難しいことをやっているように見えるけど、自分でやってみると実はハードルは低めで、「上手く」なるのが簡単なゲームってあるけど、あれに似ている。つまり、「世界像」の「深み」や「複雑さ」が「見せかけ」ってこと。非難しているわけじゃなくて、当人は最初から、そっちの「深み」などさほど追求するつもりもないだろうし、自分でもそっちの才能は大したことはないと理解している、という印象を強く受ける。作品の「世界観」とか「物語性」とか「思想性」とか言われる部分は、最初から捨ててる、というか、適当なところでお茶を濁しておいて、とにかく、自分がかっこいいと思う「場面」を描きたいという作品が『エヴァンゲリオン』だろう。


『Q』に戻れば、「古今例がないはず」の「大気圏突入時の戦闘」で始まり、キャプテンハーロック(ミサトさん)が、アルカディア号(なんとかいう空飛ぶ戦艦。ちょっと、ゴレンジャーのバリドリーンにも見えた)で、絶対的な危機を伸るか反るかの大勝負で打破する場面に繋がるという印象。


あと、エンディングで歩いていた3人はみんな、既に「女の腹から生まれた個体」ではないよね?(アヤナミレイは無論)


あと、アスカの眼帯の裏は「負傷痕」ではなく、「人間ではないモノ」があるんだろうなあ。


エヴァ:綾波ユイ/キャシャーン:東鉄也




ペストはネズミのせい、マラリアは蚊のせいにするくせに、新型コロナはヒトのせいにしない人間の身勝手。



この国ではかつて「バブル」がハジケて多くの店が潰れたが、実は、今度の「コロナ騒動」も、「観光・娯楽バブル」がハジケただけのこと。

2020年9月13日日曜日

『農家の息子』という店で、弁当と惣菜を初めて買って食った

 

2020年9月13日 日曜日/曇り時々雨


【メモ】

テタテ:外交用語で、通訳だけを入れて会談すること。元はフランス語。

(『これでわかった世界の今』)


沈埋函工法(ちんまいかんこうほう):トンネル工法の一つで、地上で「函(はこ)」をいくつも作って、水中に沈め、それらを水中で繋いでとトンネルにする。

(NHKスペシャル)



近所にできた『農家の息子』という店で、弁当と惣菜を初めて買って食った。味が薄めで結構だった。



それはあたかも、各人が常に幻覚を起こしているかのような――近くと呼ばれているものは、その中から、目下の入力に最もマッチする幻覚を選ぶ作業をしているにすぎないかのような状況である。もちろん、そう言ってしまうと言いすぎになるが、そこにはかなりの真実が含まれている。

(ラマチャンドラン『脳の中の天使』p091)


@何年も前からそう言っている。だから「見えないものが見える」は、本当は、「幻覚を抹消する機能が衰えている/失われている」と捉える方が真実に近い。



【メモ】

着陸態勢に入ったアポロ着陸船「イーグル」のコンピュータに現れた謎のエラーメッセージ「1201」(twelve-o-two alerm)


【メモ】


タコの心臓は1つではなく3つだ。血液は赤ではなく青緑色をしている。酸素を運ぶのに、鉄ではなく銅を使うからだ。


(ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』p90)


CABS (complex active bodies):複雑で活動的な身体。節足動物、脊索動物、軟体動物の頭足類の3種のみ。


(ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』p78)



√科学を信じているので、逆に、地球人類ごときの科学はとても信用できない。


√目の見える人間は、「意識の中心」は目の裏あたりにあると感じやすいが、それは無論、錯覚である。



【メモ】

ヨーロッパ人が、アメリカ大陸にヨーロッパ産のウィルスを持ち込んで、「先住民」を痛めつけてから数百年後、アメリカ産のウィルスが、アメリカからヨーロッパに渡り「スペイン風邪」となって、世界中を痛めつけた。



人間を「生物」というのは、「モナリザ」を「絵の具」だというのに等しい。事実だが、本質は捉えていない。



マネーとは時間。旅客機で世界中どこにでも1日足らずで行けるのは、旅客機システムを成立させるために、「相応の時間」が前もって消費されているから。つまり、消費された時間の総量は変わらない。