2020年9月15日火曜日

ゴードンの銃はリボルバー

 

2020年9月15日 火曜日/晴。涼しい


TP3メモ:PART11


「現場」(2240 sycamore)に入り込んだとき、アルバートの銃はオートマチックだが、ゴードンの銃はリボルバー。


ロドニーがキャンディに、「Where have you been?」と言ったのは、文字通りには「お前、どこにいたんだ?」だが、意味としては「ぼーっとしてんじゃねえ」で、つまり、ロドニーはダギーに挨拶しろという意味でキャンディに声をかけたのに、キャンデイがいつまでもぼーっとしてダギーニ挨拶をしないので、「Where have you been?」と言ったのを、キャンディは文字道理の意味に捉えて、「自動車がいっぱいいて……」と答えてしまう。


ミッチェム兄弟が、ダギーと「和解」するこの回が一番好き。



ここ一週間ほどは、岡田斗司夫のYouTubeばっかり見てる気がする。「話が合う」感じがすごく気に入ってるのだ。



前にも書いたが、宗教と科学は対立するものではない。なぜなら、宗教と科学は対等ではないからだ。一人の人間の「赤ん坊」と「成人」が、宗教と科学の関係。「数字を読む」が宗教の段階で、「数式を解く」が科学の段階と言ってもいいかもしれない。


宗教が世界中で「流行り」続けるのは、「理解」するのに「訓練」が要らないから。なぜ訓練が要らないのかと言えば、そもそも宗教というものが、[自然淘汰が用意してくれた人体の基本装備]だけで作り上げられたものだからだ。具体的に言えば、生まれつき備わっている人間の感覚器の精度および解像度によって作り上げられているからだ。


空気振動の音声が、耳(もしくは骨伝導を使うなら頭蓋骨)さえあれば、聞き取ることができるのと同じように、まあ、「普通」の身体があれば、「宗教の言ってること」は「ピンとくる」。いわゆる宗教体験が言うところの、ナニカ素晴らしいものが見えたとか、ナニカ神々しい声が聞こえたとかは、人間にもともと備わっている感覚器と脳髄の連携によって、ほとんどの人が体験できるし、再現できるし、だから、想像もできる。


一方で、科学の言うことは、例えていれば、ラジオ放送のようなもので、電波受信機がなければ何も聞くことはできない。この電波受信機に当たるものが、科学教育であり科学理解である。


怠惰な人々の内にもある「世界のアリヨウを理解したい」という欲求を満たす方法として、宗教はモッテコイなのだ。