2020年9月29日火曜日

CASSHERN:メモ

 ▼昨日久しぶりに観た『CASSHERN』は、ちゃんと聞くと、セリフは相当マズイ。というか、安っぽい。だから、人物造形も、実は相当安っぽい。しかし、それでも、最後まで見ると、作品の伝えようとした「気持ち」は痛いほど分かる。それは、生命教信者たちが流す「血の涙」。とは言え、生命教信者たちに敢えて言いたい。君たちが「血の涙」を流すのは、君たちが生き物=生命だからではない。生命の呪縛から逃れられない知性だからだ。生命は「地」であり「図」は知性なのだ。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。知性にとって、生命は「持病」である。

▼この『CASHERN』も、典型的な「生命教寓話」。

▼人物造形の安っぽさは、例えば、東博士が、「命の水」を使って鉄也を生きかえらせようとしたとき、その様子をそばで見ていた鉄也の霊が、「父さんやめてくれ、俺はもうそっちへは戻りたくないんだ」と叫ぶが、その直前まで、死んだことを激しく悔やんで、母ミドリの側で泣いたりしているので、鉄也の振る舞いには一貫性がない。これは、監督の場面主義の弊害。すなわち、つい、その場面の「美しさ」のためだけの振る舞いをキャラクターにやらせてしまうので、一人の連続した存在としての人間という感じがなくなるのだ。

▼鉄也がルナに言う「お前も見ただろう。人間が人間でないものに何をするのか」

▼鉄也がルナに言う「俺はもう人間ではないんだ」。これは、キャシャーンになったからではなく、戦争で、たとえば、ブライの妻(上のセリフを言ったときは殺した相手が「誰」なのかは知らない)を撃ち殺したことで「もはや人間ではない」と言っているのだ。

▼「いなづま」は命を「弄ぶ」存在が用いる「装置」。生命教を信仰する表現者たちは、こういう設定に陥りがち。だが、命はそんな、ダイソレタモノではない。

▼上条ミキオ総帥が東博士に言う。「命がたったひとつでないのなら、我々は何のために必死になって生きているのですか?」

▼ブライは、妻(鶴田真由)が鉄也に撃ち殺されるところを見せられてから殺された。それを、鉄也は、ビグ・ザム的決戦兵器の自爆に巻き込まれたときに「思い出す」。一方、上条総帥の手榴弾自爆に巻き込まれて死んだブライは「私には何も見えない」と言い残して死ぬ。全てを思い出したキャシャーン=鉄也は、ブライの死体にすがりついて「許してくれ」と泣く。

(2020年9月27日 日曜日)


▼「「生き返った」ルナが鉄也に言う「謎のセリフ」=「逃げて、鉄也」。これは、生き返ったルナの「中」に、鉄也が妻を殺したことを思い出した(気づいた)ブライ(の魂/記憶)があって(ルナはブライから流れであた地のおかげで生き返っているから)、それが、鉄也を殺そうとしているからこその「逃げて」なのではないだろうか? すると、最後のキャシャーンの爆発は、自爆ではなく、生き返って「怪力」を手に入れたルナが、キャシャーンのスーツを引き裂いたことで、キャシャーンの肉体が内側から破裂したということが考えられる。つまり、キャシャーンはルナ(とブライ)に殺された(殺されることを受け入れた)ということになる。

(2020年9月29日 火曜日)