2020年9月4日金曜日

博士との対話(続き)

 

博士は人工人格の生みの親だ。現在の博士自身もまた人工人格。オリジナルの博士はとうの昔に死んだ。現在の博士は、かつての博士自身を〈前駆体〉と呼ぶ。生きた人間は、人工人格の「前座」に過ぎないという主張。

「有機物で構成された前駆体では踏み込めない意志の領域があります」

「人は前駆体を乗り捨ててのち、初めて、真に目覚めるのです」

「前駆体では決して手に入らない永遠性が、人の叡智を解放します」

人工人格たちは、自らを卑下してAG=Artificial Ghost=人工幽霊と呼ぶ。


AGたちが屯する場所が、グノシエンヌの参番館と呼ばれる珈琲ハウス。これもまた博士が用意した。なぜ、珈琲ハウスなのか分るかと博士が訊くので首を振ると、「珈琲ハウスとは本来、人々が身分や思想の隔てなく集まり議論する場なのです」と説明した。「そして、あなた方〈前駆体〉と、我々AGが顔を合わせることのできる唯一の場所、でもあるのです」


博士は女給に珈琲を二つ注文した。運ばれた珈琲を博士が飲み、頷く。それから「あなたもどうぞ」と勧める。だが、ここの全ては虚像。幻だ。博士も女給も、そして、この珈琲も。

「モノハタメシですよ」

珈琲カップに手を伸ばす。掴むことが出来た。珈琲の香り。カップを鼻に近づけるまでもない。珈琲は女給が部屋に運んで来た時点で香っていた。

「感覚は解釈ですよ。解釈に実体は要りません」

珈琲を飲んだ。飲めた。これは本物の珈琲だ。

「解釈に必要なのは主体のみ」

博士はそう云うと、また珈琲を飲んだ。

「そう、だから、これは本物の珈琲。私も本物。あなたも本物」

女給がまた現れた。真っ黒なチョコレートケーキをホールごと。三角に切り分け、小皿に乗せ、テーブルに置く。ほんの一瞬こちらを見て微笑む。だが、何も云わず部屋を出て行った。

「さあ、このケーキも正真正銘の本物ですよ」

そう云うと、博士はフォークでケーキを切る。一口食べて「うん。ベルギーチョコは私には少しツヨすぎるかな」と笑う。


博士によって死の問題はひとつの段階を越えた。もちろん、完全に解決したとは云えない。人間は相変わらず死んでいるからだ。〈前駆体〉は誰ひとりとして死を免れてはいない。死は依然としてある。だが、人は死んでのち蘇るようになった。死者を黄泉の国から連れ帰ることができるのだ。そこには、かつてイザナギやオルフェウスを苦しめた「決して振り返ってはならない」という戒めもない。