2020年9月17日 木曜日/曇りのち晴れ
どんなに大上段に構えていても、どんなに深刻ぶっても、あるいはどんなに全宇宙的規模の事件を描いていても、地球人類が描く物語は、それが小説であれ、映画であれ、アニメであれ、ゲームであれ、現状、殆ど全て「生命教」の「説話」である。
範囲を狭めて「スポーツ教」の「説話」というものを考えてみよう。その「説話」の中では、例えば、或るサッカーチームが決定率に悩んでいたり、或る新人投手の球がすごいと騒がれていたりする。そんなことばかりが、さも重要そうに語られる。それは、「スポーツ教」では、試合での勝利が特別な意味を持っているからだ。しかし、そもそも、サッカーや野球の試合で勝利することに、客観的で普遍的な意味や価値などない(「五体投地」や「礼拝」や「柏手」が信者以外には無意味なのと同じだ)。この「事実」によって、「スポーツ教」の「説話」は、信者以外には、悉く「茶番」なのだ。
「生命教」に戻る。生命教は、生命を御本尊とし、あるいは中心教義に据えているが、そんなものは、生命教の信者以外にはどんな意味も価値もない。なぜなら、生命は知性の永遠性を実現しないことが分かっているからだ。生命をアテにしていても、知性には未来がないことを、生命教の信仰から解き放たれた知性は気づいている。永遠という概念を持つ知性にとって、生命は穴の開いた船、空気の漏れる宇宙船でしかない。つまり、決定的に「不合格」仕組みなのだ。
ところが、この地球上に存在する知性は、全て生命依存型の知性であるがゆえに、特別な訓練をしなければ、「自動的に全員が」、ゴリゴリの生命教信者になってしまう。(ちなみに、人間の子供は、或る一定年齢以上になる前は、「生命教信者」ではなく、「ただの生命」=「生物」である)。そこで、本来「茶番」にすぎない「生命教の説話」が、宇宙の真理に触れるような神妙な顔つきで語られ、また受け取られることとなる。
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生命を生命として認識するのは知性である。知性が不在の宇宙では、生命は[やや込み入った無意味な物理現象]にすぎない。生命に或る特別な地位を与えているのは知性である。ところが、生命は知性に「無関心」である。生命は知性ではないのだから「無関心」で当然なのだが、生命現象依存型の知性は普通、生命のこの「仕打ち」に気づけない。これが、生命の上で機能している知性の、ひとつの「限界」である。